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2010年4月12日月曜日

服喪のmur-mur2 ババは もう そう長くない (注)



なにも映し出さない鏡を、印度の行者が作りました。
「なんでも、同時に映る鏡を欲張って作っていたら、失敗してこうなってしまったんだ」
じっと見つめる目は焼けただれ、伸ばした手は溶けてしまう。
嗅いだ鼻はもげ、なめた舌は焼けただれ、体は写らず、どんな思いも届かない。
訴える声。
雷の脅しの音。
どんな音も、鸚鵡返しに相手に返される。
それを聞く耳の鼓膜はやぶれ。
植物の樹液が木を駆け上るかすかな音も、聞き届けられることは一切無く、鸚鵡返しで、弾き返されてしまう。
わく組みだけの、鏡のようだが、なかは坩堝になっていてバチバチはねている。
ドロドロに溶けた数字のゼロのような、のっぺら坊の熱の固まり。
のぞく顔も映る空も、吸い取ってしまう。
身を投げたひとが永遠に人柱になっているような、深い井戸の底の冷たい石に似ている。しかし裏側からはブラックホールのように硫黄の煙を、もうもう吐きだしている。
そのマグマの鏡から、ひとかたまりの光が噴射している。
あるとき川辺の柳の木に、破片が降りそそぐ。それが、水面に落ちるのを、行者は見逃さなかった。
さざ波とも、刃とも知れないものが泳ぎ始める。
やがてそれがシシャモとなって、川を遡るのを見届けた。
「その鏡は物を写すより先に、いきなり動物の食べ物になろうとしたんじゃ」
「そのシシャモはマグマの鏡から、いきなり運ばれて来たんじゃ」
「下町浅草の夕餉の食卓に、銀色の串刺しのシシャモが並び、金色の卵が胃に落ち。卵は孵り、稚魚になって泳ぎ始める。そして、人の体のあちこちに透きとおった卵を、産みつけ・・」 行者はそこまで言うと、役割を終えた手品師のように消えました。

おひなさまのつぎの日でした。
兄と妹は甘酒でほてった顔を、窓から出しました。
窓ぎわに置かれた植木鉢には、エンドウやナス、トマトの花が咲いていました。
犬は物置小屋で生まれたばかりの子猫を見つけ、甘えるような声を掛けました。
その暗闇をふたりがのぞき、子猫を犬から救いました。
犬は遊び相手を取り上げられて、鉢の花に八つ当たりすると眠ってしまいました。
そんな騒ぎを、ベッドで笑いながら見ていたババが言いました。
「わしにもその白酒の五合ビンを、抱かせておくれ」
「ババ、ぼく達、これからあんまりババの役に立たないと思うよ。御雛様には一日、間に合わなかったしね」
「気にしないよ一日ぐらい。で、どんな白酒だい。軽いやつかい」
「長野産のもち米で作った、『富士の白雪』だよ」
「なんだって、」
「知ってるだろ。よく飲んでた『富士の白雪』だよ」
「ほらこれ」 ババに渡す。
「また馬鹿に大きいビンだねババの赤ちゃんにしよう」 ババは両腕でビンを抱きかかえる。
「南無阿弥陀仏。こりゃまた重いねー」
「今、湯飲茶碗一杯だけ飲んでいいかい」
「すきっ腹にいきなり飲むの。何か食べたの」
「食べなきゃ飲んじゃいけないのかね。飲みたいんだよ、それだけなんだよ」 ババ一杯飲む
「何も食べてないから良く利くね」
「赤ちゃんと言やーね。東側のポプラの木を見てごらん。蜜蜂が赤ん坊位の大きさになって群れているよ。昨日、病院から攫われたという赤ん坊ね。わたしが睨んだところ。あの中にいるよ」 孫たちに言いました。
「ババ、今日は、ばかに飛んでること言うんだね」
「そうさ。女王蜂は寝たきりでも赤ちゃんだけは大昔から大事に守ってきたからね」 ババは言いました。
「ババは、いまの事を忘れる分、昔の事を思い出して、手に取るように分かっちゃうんだ!」 孫たちはババに調子を合わせて頷きました。
「群れの一匹がさっき犬を刺したんだよ。犬の奴、それで暴れたんだ」 ババは眉をひそめました。
「町内会の騒動に、ならなきゃいいがね」 ミツバチの群れがいる、ポプラの木を見上げました。
そのときババにはポプラの枝から、大きな影が飛び立つのが見えました。
ババはぶよぶよ動く蜂のかたまりを見ているうちに、いつか一緒に暮らしたことのある、フルーツ・コーモリを思い浮かべました。
その瞬間、その想像のコーモリが飛び立ったのでした。
それが孫たちにも伝染して、三人とも夕空に「ふわっ」 と、舞い上がったような気がしました。
薄暮の大魔が時でした。

コーモリが飛んでいった先はね。鍾乳洞でしたよ。
トンネルは洞窟の中で枝分かれし、袋小路になり、大広間になり30メートルの滝つぼに繋がっていました。
そこは、巨大な恐竜の胎内のようで、散歩していると、2400年が過ぎてしまうタイムトンネルだったってわけさ。妙に落ち着くところでね。年中気温は摂氏18度なんじゃ。
コーモリがそこに入ったと思われる薄暮の瞬間、ババの顔がぱっと輝きました。
そこは2400年も昔の若い頃のババと、その子供たち50人の住みかでした。
洞窟に巣くっている、フルーツ・コーモリを操って、夕方から夜にかけて町の空を飛び回り赤ちゃんをさらいました。
コーモリはこの洞窟でわたしに獲物を渡すと、やっと自分の餌を探しにとび立ったものです。コーモリがこの順番を間違えると、わたしの末娘が昼間、竹ざおで天井から叩き落すことになっていました。
その日も、新鮮な食材がまな板に並びました。
「今日も、くたくたに疲れたわ。でも、ご馳走なのよ。わたしの留守中、怠け者のコーモリはいなかったか」   若かったわたしは末娘に聞きました。
「いなかったわよ。それよりね、変わったことがあったの。入り口の睡蓮池のそばで、女がふたり口もきかないで座っていたのよ。一日中。私、食事を運んであげようと思うの」 わたしは釜戸に薪を投げ込みながら
「怠け者に、食事を恵むなんて許しません。あれは座ってばかりいる怠け者なのよ」 わたしは髪の毛に燃え移る、かまどの火の粉を、払い除けながら末娘に答えました。
「わたし達にはお腹をすかせている兄弟が50人もいて、今仕事を終えて帰って来るのよ。座っているひまなんて、家の子にはありません。無駄口を聞かないでミート・カレーのお皿を、どんどん並べてちょうだい」
次の朝、わたしは女弟子たちに毒づいてやりました。
「行者の弟子なら、なんでも出来るはずだわね。となりに咲いてる睡蓮の真似でもしてごらん。朝、塵芥の中から顔をのぞかせ、ポンとはじけて咲き、夕方は花びらがダイオードのように光り。夜は蕾んでまた汚れた水中に沈み。それでいて何も誇る様子もない。それが出来ないぐらいなら、金輪際娘の前に姿を現さないでおくれ。こちらは食うだけで、精一杯なんだから。人の怠けた姿を、娘に見せないでおくれ」 女弟子達は
「人は、睡蓮の美しさには、かなわないのよ。わたし達は、こんなもので出来ているのよ」 体をぽんと裏返すと、目玉をはずし舌を抜いて、お腹の臓物もどろどろと手のひらに載せて見せました。そして
「何もしないで、いくら怠けて見えても常に動いてしまうのがこの臓物なのよ」 と言いました。
わたしは気絶しそうになり二人をますます軽蔑しました。
夕食のしたくをしながら、末娘に耳打ちしました。
「あそこに近づくの、許しませんからね」
「あら、どうしてなの」
「『赤ちゃんを、さらわれた親達が行者の道場に、かけこんで泣いている』 と今日、町で聞いたわ。わたしがさらったと、うわさが立っているのよ。親の不注意のせいなのにさ。わたしひとりを、悪ものにするんだよ」
「それでわたしはどうしていれば良いというの?」 娘は聞き返しました。
「言いふらしたのはあそこで、いつも座って見張ってる、あの女弟子二人に決まってる。だから、あそこに近づくのは絶対許しませんからね」

次の朝、末娘が見当たりませんでした。
「懲りもせずまた、来ていやがる」 わたしは腹いせに女弟子に食って掛かりました。
周りの睡蓮を引き抜き二人に投げつけると
「この役立たず。怠け者。疫病神。大切な末娘を探してくれたら。何でもくれてやる。もしおまえらが隠したのなら、私の命と引き換えに、返してくれ」 わたしがそう懇願すると、女弟子はやっと口を利きました。
「道場に来て悩みを打ち明けると良いでしょう」 と、わたしを道場へ案内しました。
行者は泣き崩れる、わたしを見て、
「50人もの子宝に恵まれたのに、その中のたった一人を見失っただけで、身代(みが)わりになりたいほど悲しいだろう。どの親も同じなんだよ」 静かに言いました。
「その子がもう鬼に食われて、骨になっていたらどうだね。これからは、攫った子を食わないことだね」 自分は鬼だったのだと、思い知らされた瞬間でした。
胃の腑のシシャモの金色の卵が、いっせいに孵ったように、体中が花火のように閃き渡り。わたしは吠えるように泣き続けておりました。
「ちょっと、こちらを見てごらん」 見上げると、行者の衣のすそから末娘がわたしを見下ろして立っていました。
「反省したのなら、今までの事は許さなければなるまい」 
行者は言いました。
「わたしは急いで洞窟に戻り、わたしが鬼だった時、さらった子を悲しむ親のもとへ、フルーツ・コーモリと手分けして送り届けました」

「へえ!」 孫たちはため息をつきました。
わたしが行者の前で、涙を流したとき、東側のポプラの横に、虹が立っただろ。
あのときが、虹になったんだよ。
それから私は急いで、赤ん坊を返したんだよ。私が帰した赤ん坊の中に昨日病院でさらわれた子がいると良いのにね。
しばらくすると
「昨日さらわれた赤ちゃんが、病院の玄関で元気一杯、泣いているところを、警察に無事保護され両親の元に返りました」
って、テレビが言いますよ
ひな壇の右上はお父さんのバーチンカ。左側がお母さんだったこのババ。
下の段に、末娘と、数え切れない兄弟達。
ひな壇は昔からそんな風に、順番が決まっとるんじゃ。
「ババはどうやってタイム・トンネルをくぐって大昔に行って来たの」 孫が聞くと、
ババは
「はあて」 と、考え込んだが当たり前すぎて、説明する言葉が見当たらないとでも云うように
「この頃は息を吸うときに、余計なことまで思い出して、吐き出すときに大事なことを忘れてしまうんだよ」
ババはそこまで言うと役割を終えた手品師のように
「にいっ」 と、自分だけに笑って深い眠りに落ちて行きました。    
眠りの落ち行く先はなにも映し出さない鏡の中でした。
最初のシシャモの金色の卵が胃に落ちて体中で卵は孵り、稚魚となって泳ぎ始め。
そして2400年ものあいだババの体のあちこちに、透きとおった卵を産み続けた。
そのシシャモがさざ波とも刃とも知れない光となった。
それがフィルムの逆回転のように川を上り川辺の柳の木に遡上し。
空に舞い上がり産みの親であったマグマ鏡に、一塊の光として擬縮する。
「印度の行者が何でも同時に映る鏡を欲張って作っていたのもほんとうのことで。失敗して何も写らなくなったのもほんとうで。何も写らないから何でも見えてしまうのではないか。行者が衣から娘を出したように。きっとあの衣こそ行者の発明品なんだ」 孫達はそう思って、おばあちゃんの肩に毛布をそっとかけ直しました。
「ババはわく組みだけの鏡、と謙遜して言っていましたが、本当は中身がいっぱい詰まっていたからこそ、坩堝のようにバチバチはね、ドロドロに溶けたゼロのような熱の固まりが行者にははっきり見えていたはずです」 眠り込んだババの前で孫達はあれこれ推測して、もじもじと見つめ合いため息をついてベッドを時どき覗きこむのでした。

(2009・8・27)

(注) ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ 「エレナ」より引用

2010年4月10日土曜日

服喪の mur-mur 適度のストレス



オレンジの体にオパールと、エメラルドのマントを纏って朱色の二本足ですっくと立っている。
見たことも無い美しい姿が鏡のような水面に映った。
おいらは餌探しで精一杯で、水に映った空や雲になど気が付いたこともなかった。太陽などは邪魔者以外の何ものでもなかったからね。
「世の中にこんなに綺麗な物があったんだ。なんだろう」 と思った。向こうもちょっと首を傾げているところを見ると生き物らしい。影の裏側にはおいしそうな小エビが、のろのろと餌になるのを待っている。おいらは、勢いよく小エビめがけて、枝を離れて水面に突っ込んだ。宝石のような物が風船玉のように、目の前に広がってぶつかってきた。水面が、虹色に光ると、後は水の中に、ちらりと小エビが見えただけ。
おいらは水面の影に気を取られ、小エビの事は忘れて、力いっぱい、突っ込んだ。水面が割れた時、水めがねの役をする幕を出し遅れていた。勢い余って、エビを取り逃がして川底の、岩肌に激突してし、目をやられた。
枯れ枝に舞いもどると、ぼやけた虹の欠片が水面にちらっと揺れた。目の傷のせいでそう見えるのかもしれない。餌も咥えず、慌てて巣に戻った。
狭い入り口に尻尾から入ると、巣穴は蛇の気配も子供の気配も無く全くの空っぽだった。
「そうだった、子供たちは餌捕り特訓を終わって、昨日巣立ってしまったんだ」 しばらくすると、妻が戻ってきた。
「三羽が同時に巣立ってしまうなんて、むなしいもんだね」 おいらは言った。
「そうね、それで餌取りする気もせず、ぶらぶら散歩して来ただけなのね」
その日は妻の捕ってきた鮠をもらった。
口移しで 貰ったのは雛のとき以来初めてだ。
「一週間、厳しく訓練したけれど、急に、やることが無くなるね。寂しいもんだ。」
美しい生き物のため、取り逃がした小エビの話をしながら、目の傷を妻に見せた。
「これから、本当の人生が始まるというときに『餌を取れなくなった』なんて、惨めな言い訳はやめてくれない!」 妻は今まで通り縄張りを広げる事ばかり考えていた。
次の日、二羽で餌捕りに出かけた。妻は一声鳴くと、見事なフォーバリングで、小エビを咥え、早速巣に戻って食べた。仲間は、その場で、いきなり生き物を、飲み込んだりしないんだ。おいらも一匹の鮠を咥えて巣に戻り、
「ご馳走様」 と遺骨を残したが、それだけで腹いっぱい。また枯れ枝に止まったが、自分だけが食べる餌を捕るのが
「ママゴト遊び」のように嘘っぽかった。あたりで、カシャカシャと、シャッターを降ろす人間共に踊らされているような気もしてきた。おいらは餌を追うのをやめて、目立たぬように岩に降りた。苔むした岩には、樹皮を剥いだ枯れ枝が、岩に結わい付けてあった。
「これは、何なの」 おいらは岩にこびり付いている苔に聞いてみた。
「これは私とちがって青々としていません。流木といって、根っこもありません。人間がカワセミのために作った飛び込み台という仕掛けです」
「仕掛けって何ですか」
「あなた達が、餌捕りに便利なように、人間が作ったものですよ。その見返りに、カメラを構えて、きみたちを一日中、追いかけているじゃありませんか。目立たない苔にとってはうらやましい限りですよ」 苔は俯きながら言った。
「でも、このごろは川底の釣り針が気になって仕方ないのよ」 苔と話していると、妻が仲間を連れてやってきた。仲間達は枯れ枝の二股の天辺に、止まってためらいも無く、飛び込んでいく。
足元に運悪く髭ぼうぼうの土の固まりそっくりの川ガニが隠れてた。おいらに駆け寄ると、足を挟んで離さない。岩にもたれかかって嘴を使って難を逃れた。
「川ガニなど恐れて、もし相手が蛇だったら、今頃、丸呑みされてたわ。突然どうしてそんなによぼよぼの足になってしまったの。ここはわたし達の縄張りなのよ。守らなくては若いカップルに、乗っ取られてしまうのよ」 妻は枝先でおいらを睨んで言った。
「仕方が無いわ。近所の子育てが終わった仲良しに、手伝ってもらうことにするわ!」 妻と二羽はおいらを脅すように飛び回った。
「昨日まで守り続けた餌場にも、子育てが終わった私にも、未練などもう無いんでしょ! 私たち三羽で縄張りは守ることにするから、あなたはすぐ出ていって。生まれ故郷にでも帰るがいいわ。苔に、進路相談するがいいわ」
おいらは川上に向かって逃げるように歩いた。
カニに挟まれた足をかばって、一本足と片方の羽で体を支えていると、親しみを込めてるはずのシャッター音も、命を狙うポンプ銃に思えてきた。
「これからは自分の食い扶持だけ捕れば、後は全部が蓄えよ! 時間だって全部自分のものよ。美しさだってカメラを吸い寄せるほどだし。力を合わせてもう一花咲かせましょう。他のカワセミが近寄れないように。私は、歌をもっと上手く歌うわよ」
子供を生んだことの無い同年輩が、高らかに縄張りを主張した。
「蛇から身をまもるための談話室も作って三羽で心豊かに暮らしましょう。それぞれゆづり合って旨くやりましょ少々の我慢もしてね。未練たらたらで縄張りを捨てていく人を。励ましたらだめよ。自殺するかもしれないわ」くちばしが黒い元妻が歌舞伎の女形のような甲高い声で言った。
「突然、カワセミが川に潜れなくなる。なんて、聞いたことも無い」 口が朱色のカワセミがおいらの役目を引き継いだが、その後どうなったのだろう。おいらは気を失ってその場に倒れてしまった。
気がつくと人間の手から擂り餌をもらっていた。プライドが許さなかった。鴉にでも襲われたほうが納得がいく。それで羽をばたつかせてみたが、点滴の管と足のギブスが絡み付いて体がうまく動かない。七の日目の朝おいらはその鳥小屋から脱出した。というより素直に告白しておこう。
「まだ、生きろ」 と人間に野性に戻されたわけさ。
飛びながら冬の雪の中、薄氷の谷川に飛び込んだ自分を久し振りに思い出した。餌を咥え、小さな巣穴に、お尻から入って、子供たちを驚かせ喜ばせた。あの時おいらの背中は、どんなに男らしかっただろう。
しばらく行くと、見たこともない。名前も知らない、丸いものが同じ形で、一面に咲いていた。鳴き声も出さずただ風に揺れ頷きあっている。
「うらやましいなー。君たちは、なぜそんなにどっしり座っている事ができるの。餌はどこから取るの。何も吐き出さないの」 尋ねたが、おいらが恥ずかしくなるほど落ち着いて
「餌は根が吸い上げ、炭酸ガスを吸って、空気を吐いて生きているのよ。花は咲いたら、種を残してミーラのようになって散るのよ。あなたが七彩色でどこへでも飛んでいけるのを羨ましがっていたのは私たちのほうよ」 決められた色で咲いて、嵐が来てもじっと動けない。逃げ出すおいらと同じ苦労をしてるんだ。
枯れ果てミイラのような種になって枯れてしまう者と、おいらの老いと比べながら、山奥の渓流を昇って行った。気がつくと、腹が減っていた。ここにも枯れ枝が岩に突きさしてあった。おいらは思い切って枝に止まった。
「しーっ」と、人の声がして、シャッターの音が谷間に響いた。水の流れに、虹がぼんやり浮かび上がって目の前に迫って来る。
「この姿は巣立った子供たちや妻にも良く似てる。するとこれが、おいらのありのままの姿だった」
おいらは病気でも怪我でも意気地なしでも何でも無い。新学期に良くある軽い鬱だった。極楽からでも飛んできたような凄い姿に、突然気がついたのだ。その出現に今しばらく慄いているだけなんだ。そう思うと、不安が消えて勇気が湧いた。勢いよく、小エビに向かって飛び込んだ。小エビは難なく捕れた。
その夜おいらはダムのコンクリートの小さな穴に、止まって夜を過ごした。
「さて、これから、どうしたものだろう。餌を捕れるようになった」 とは言っても、元の縄張りには戻りたくない。
渡り鳥達は、満月の夜、のわだかまりを捨て心を一つにして、違う空に一斉に飛び立つのだろうか。
地球全体が縄張りなんだ。細かいことで言い争ったりしない。おいらは、東南の空を見上げた。星の巣だった。蛇とか鷲とか、サソリとか、鳥にとって不吉なものが、登ったり降りたりしている。
水がダムから滝のように渦巻いて落ちてくる。
「明日、ダムに飛び込み餌を加えて舞い上がるんだ」 水に飛び込む虹のような姿のほかは、何も思い浮かばなくなっていた。次の朝、ダムの畔で夢に描いたホーバリングをして餌に向かって突進した。獲物底なしのダムに潜ってしまった。
ダムより上流の谷川に向かった。そこにはもうシャッター音は無かった。谷間の村落の石の地蔵さんに手向けるようにして清い水が流れていた。地蔵さんの頭に止まって一日観察した。年寄りの薄い影が時々歩いてきて、臆病なおいらを追い立てた。おいらが糞で汚してしまった赤い涎掛けを変えたり頭を磨いたりした。お構いなしにそこに止まって餌を探した。石の下に吸い付いて隠れているナメッチョと言うおいしい魚を狙ってみた。すると石ころだけの川底に、餌が一杯見えてきた。村の子供がおいらの嘴を見て
「カワセミがナメッチョを咥えてる。味噌汁の出しのナメッチョが、美味いと見える」 と囃し立てていた。でもそんな事は長く続かなかった。
山奥ははタカとトンビの勢力争いの最前線で、餌の奪い合いで攻めたり攻められたりを繰り返していたのだ。ある日、御地蔵様に向かっていると、いきなりわき腹めがけてタカが飛び掛ってきた。
トンビは注意深く空を旋回しながらタカの狩りの様子を伺っていた。おいらは本能的にダムに向かった。深いダムにタカは潜れないだろう。おいらは深緑色の石のようにダムに落ちていった。タカも水面まで追いかけて来て今日の食事にありつこうとした。おいらは初めて身を隠すために、水にもぐった。でもその記憶はなかった。
そうするほかに生きる道はなかった。人間に捕獲されたときカラスに食われたほうが良かったというのは単なる強がりだった。どれくらい息が続くのか試したことが無いので分からないが、なるべく時間の続く限り浮かび上がってこないようにしよう。
トンビは先に飛び去るだろう。
タカは今でも水面すれすれを飛び回っている。
「ダムの水を通り越した先に、空気のあるタカのいない別世界がある」 とも思えなかった。
カワセミは餌を追い、時には餌となって追われる野生に帰り、適度のストレスの中で、いつのまにか生き始めたのである。

(2009・8・27)

2010年4月9日金曜日

服喪のスートラ11 カマキリのmur-mur

  

カマキリは干からびた寒天みたいな揺りかごで目を覚ました。
松の小枝が東風にゆれると、雪のかわりに木漏れ日が降ってきた。
体長一センチほどの兄弟は、毛糸が絡まるように二〇〇匹も生まれていたが、親の姿はどこにもない。おいらにゃ躾けも挨拶も何もない。生まれたばかりは仲良くだき合っている。だがひとたび腹が減ってしまえば、カミソリのような鎌を使ってつかみ合いだ。どちらかが食われるまで続くのだ。それで月見草をクッションに地面に落ちると、蜘蛛の子を散らすように、お互いに見えないところへと逃げたのだ。おいらは野バラの茂みで生きのびた。兄弟の約半分は死んだだろう。
六月の梅雨の夜、おいらは命の思人に、お礼のつもりで登っていった。
「野バラはおいらの味方に違いない、あのときもこんなによい香りではげましてくれていた」 と思った瞬間「チクリッ」 返事の棘がわき腹に食いこんだ。
油断も隙もありゃしない。
引き返そうとしたが時間がない。一回目の脱皮が、もう始まっていたからだ。四本足を葉っぱに巻きつけ、背中が割れてくるのを待った。
明け方には、棘の横で血管が透けてぐにゃぐにゃの命が脈うっていた。
「おいらを刺し殺そうと、狙ってたなんて。バラの姿や香りなんかに二度とだまされないぞ」 体が乾くのを待ち、一回り大きくなっておいらは地面に転がり落ちた。
めった見せないへっぴり腰を、まっ赤なバラにさらしてしまった。
「お疲れ様。向こう見ずの、お馬鹿さん」
バラはつんとすまし。おたふく顔をふるわせて、風といっしょに笑ってた。
でもその時から、棘あるバラが、おいらのマドンナになってしまったのさ。あの初恋の想い。棘が胸に刺さり、気絶しそうな、しびれる思い。  
初夏の朝、おいらは、最後の脱皮で、大人になった。ぼやけた夏の月が始めて生えた羽の向こうに明け方まで輝いていた。それがはじめてゆっくりと見た満月だった。
八月のある日、茶色に燃え立つ麦畑で、餌を待っていると、青いものが這い出した。首をぐるりと回して鎌を振り下ろした。
次の瞬間、体中が肉汁にひたされていた。おいらは軽い風船が、重い満月になったように満たされていたんだ
「兄弟のカマキリを食べてしまったのかもしれない。回りは敵か餌か。逃げるか、飛び掛って行くか」 考えている暇もない。
九月の野分の吹く日。バラのマドンナに近づけば、千切れんばかりに花や棘を横に振る。一世一代の大人の羽を自慢したのに、おいらは単なるストーカー扱いだった。
「最強のライオンにさえ、家族という慰めがあるというのに」 稲の穂先で、落ち込んで俯いていると、すかさずスズメが飛び掛って来る。おいらは鎌と羽を広げて追い返そうとした。
運よく南の空で折れ線グラフのようなイナヅマが光り、雀は一目散に逃げ去った。
「よーし、いままでにない大捕り物を始めるぞ」 イナヅマはおいらが鎌を振りあげた時には、とっくに消えている。この大物は、なんて素早いのだ。おいらは胸を盛り上げて垂直に姿勢を正した。
「おいらは大人の羽が生えたのだ」 周りの稲穂に溶け込み、身を隠し少しずつ近付いてくる光と音をじっと待つ。
おいらは月が爆発したような生き物を、丸ごと生け捕りにしようとやっきになった。
「折れ線グラフをあやつって自在に空を飛べたなら。鳥もおいらを見なおして、襲ってこなくなるだろう」 その瞬間、脇を飛んでいたイト・トンボが七色に光って
「ドッカーン」 と雨がきた。
おいらは、そいつを手掴みにしたらしい。
火傷の鎌を開いてみると煙のほかに何もなかった。なんども、稲の根もとで、構えたが、そいつは見向きもせずに行ってしまった。おいらは電気ショックで腰が曲がったようだ。
十月は、妙に寒さが身にしみた。意固地なおいらでさえ、田んぼや野原や畑で仲間を探して飛び始めるありさまだった。凍える月明かりが
「私は世間をくまなく見たが、冬の生き物はみんな貧乏で、わが身を削って生きている」 と教えをたれていた。
食べてしまった生き物が、幽霊のように生き返り、おいらは罪人だった。それを云ったらおしまいだけど、もう殺生はこりごりだ。
―心配ないよ。餌はもうどこにもない。せっかく生えたその羽を、お嫁さん探しに使え―
天から聞こえたその声は、十一月の両親が、歌ってくれた子もり唄そのものだった。
おいらは、バラじゃなくカマキリの君をやっと見つけ、お尻のそばへそっと降りた。
そして固くなってふるえながらプロポーズした。
「お腹がすくね。雪ももうすぐ降るだろう。おいら達って、帰って行く家もないんだね。野原のどこにも餌はない。目に入るのは敵の鳥ばかりだ。父も母も冬を越せない身の上だった」
言い終わらないうちに、君の鎌がおいらの胴を、まっ二つに切り裂いた。生き残った君はおいらを食べて、満月のような卵を二00も産むだろう。産み終えてすぐ死んでしまうきみに頼んでおきたい。
この十一月のカマキリの悲しみを、子もり唄にして、ゆりかごの卵に、歌ってから死んでおくれ。きみがそうしてくれたなら。松の小枝は東風にゆれ。雪のかわりに木漏れ日が、揺りかごの絡まった緑の毛玉を揉みほぐす。       

(2010・1・26)

2010年4月7日水曜日

服喪のスートラ10 K先生への挽歌

 

前略
夏は暑い、まきり君が墨流しの授業中に発泡スチロールの風呂に入ったのも夏だった。例のわたしが小学生のまきりに行った授業、時計分解の事だが
「方法はメディアを選ばない」 と云う格言みたいな言葉がいつのまにかわたしの中に生まれた。その事の真意は時間に関係あるのではないかと思うようになった。それで事実と記録には時計が真実味を帯びる事などから時計を分解してみた。複雑で分解できそうもないが、わずかなドライバーとペンチで分解される。だが時は流れる。人は好きなところに時々トドマルのではなかろうか?
マキリ君の味う事について、不可解なものに対して理解しようとするときシタを出す、キッスもそうだ。わからないので交信する。のではないかと、考えさせられた。
長編散文詩ジャンルなどどうでも良いあの長い日記―自閉症児と父の日記―には、おかげで読むだけで二日もかかりました。まきり君が二〇才になるとは日記のなかでわかりました。時間の過ぎるのは早い。
私は今、福岡に出張に来て、珈琲を飲みながら手紙を書いている。左手は金色、白色、うすみどり、青色、が爪の間についている。それを見ながら、何を書くかなどと考えているが、思い出すがままに書こう。
まきりの日記は、道路に立つ信号や、広告板や道路標識が、正確に書かれていたこと、日記に昨日や今日、一昨日の境界線を引こうとしないのか、区切りがないのか、そのあたりがぼくに取っては大変興味があった。
それでまきり君にとって日記とは一体全体なんなのかはっきりしない。忘れそうなので記録するのか それとも私自身にみせるためなのか、と考えるがよくわからない。
だからまきり君の日記が中心よりも親達の日記が中心になった方が良いのではないか。まきり君を中心に心配というかさまざまなことを考えて時は去っていく、忘れることの出来ない人。まきり君。思い出したようにポツンぽつんと日付の不明なマキリ君の日記が入るほうがはるかに良いように思えるが。
親達は裸で吉原へ歩いていったことに対してのお詫びというかお礼というか、その事後処理や施設の問題や先生の事など良い悪いは別にして書いたほうが良かったと思う。
ヨシノリ様 マキリ様     風倉より




わたしが初めて黒い風を見た日。それは一九七三年の十二月二十日、午前一時のことでした。多摩ニュータウン造成予定地でのことでした。いまにも伐採される柳の枝を、黒い風が空高く巻き上げ。月食を見に行ったわたしたち三人を、その髪の毛に巻き込みました。風は柳の木の悲鳴を代弁して吹き付けました。月が地球の陰に飲まれ、鳥共が泣き騒ぐ瞬間でした。三人と柳と宇宙を繋いでいたのがその風でした。
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ。天体望遠鏡を覗きながら、今、見えている通りの事を、隣の誰かに伝えたい」 そんなことを思ったとたん、言葉に詰まってしまう。それに似て
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ」 今、公園予定地の砂ぼこりを空高く巻き上げ、いつか見たあの風が暴れているのです。
35年前のあのときのように、渦巻いていたのです。わたしは前の住人が忘れていった、よごれたカーテン引き、寿荘に差し込む朝日を、鏡で受け止めました。その光を風がたわむれている場所に向けて放ち
「わたしは一人浅草から今、ふる里のここに帰って来ましたよ」 と、挨拶するつもりでした。すると黒い風は娘や息子の写真などを吹き飛ばして、わたしに突進して
「やあ、帰って来ていたのだね。小学生だった君とはこの辺でよく駆けっこしたね。いつも君は冷え切って、日向ぼっこの細葉の囲いや、日の当たる路地に逃げ込んだね。君の弟が病気のときには、背中を押してヤギのお乳を、一緒に買いに行ったね。あの頃のチャンバラ映画館はもうありませんけどね。黒い風はこのあたりで、カラッ風なんて呼ばれていますよ。」 それからというもの、わたしの部屋を、風が覗くようになりました。わたしのほうでも風の音を聞き漏らすまいと、耳をそばだてて暮らしました。耳を澄ませば、澄ますほど春の陽だまりのサルノコシカケに、いつのまにか座り込んで、ひっそりと動こうともしません。
また、わたしのほうも風が話しかけているのに
「あの! いつか一緒に見た。あれ! あれ」 と、呟くだけのそっけない対応を何年続けたことでしょう。
鍬入れのときから見てきた、隣の新設大学はできあがり。正門前で咲き誇る、シデコブシの花に送られて、一回目の卒業生が出て行ったのは、今年の春のことでした。風は五年以上も辛抱強く、わたしを覗きに来ていたことになります。
「本当に風の声が聞こえているのかい!」 風はいつもそう疑って過ぎていきました。
しかし、今わたしはほんとうに風の声や歌が、聞こえたということが出来ます。わたしは墨流しの模様を、真似たのです。和紙を水紋にそっと浮かべたように、風の流れにわたしの蝸牛のような、大きな耳を集中して傾けたのです。人と話す事も一切中止して。それは素粒子に穿たれたフィルムを現像するような、辛抱が要る作業でした。
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ」 風はわたしがそんなふうに乱暴に答えても必ず来ます。
風と比べて、人間の文字や言葉など、そんなに長持ちするとは思えませんが。まず訪ねてくれた風には、色の、呼び名をつけてやりました。風がそれを気に入ったか、どうかはまだ聞いていません。黙り込んだままです。風って奴は結構、天邪鬼なんですよ。



小学生の頃、茜色の風が夕焼け雲から吹き込んできました。大きな杉が畑中の一本道に覆いかぶさるように立ちふさがっていました。
大杉の東側にはお爺さんおばあさんが住んでいるという祠のような、小さい家が立っていました。家はいつも留守で人が住んでいるのを疑う人もいましたが、気味悪がって覗いて見るものは居ませんでした。
そんな塾への道を、毎日通うのですから、女の子の親が心配し、同級生のわたしと二人で通わせるように取り決めたのでした。その道は片道だけでも一時間もありました。その小学生の女の子はとても強情でした。楽しいことは自分が居ない所で、自分だけを置き去りにして起きていると思い込んでいました。
男の子同士がどんなに楽しいことをして遊ぶのか、いつも知りたがりました。ある日の事、わたしは女の子に、新津の林を、見せてやろうと思いました。いつものコースから少し外れて、林へ入っていきました。小川に架かった丸木橋を渡ると、そこは無人の水車小屋でした。誰にも教えられない秘密の基地で、セミの抜け殻や、マッチ棒小刀など腕白小僧だけの宝の隠し場所でした。女の子は丸木橋まで来ると
「狼に食われた赤頭巾ちゃんはお母さんが狼のお腹を裂いたときには、もう半分溶けていたんじゃないかしら」 と急に心配になって、丸木橋の上で立ち止まりました。
「あれほど、自分が居ないときの事を、知りたがっていたのに!」 わたしは怒って、女の子に言いました。
「入って覗いてみるかい。やめておくかい。ぼくだって、仲間との掟を破って、中を見せてやろうと思ったんだ。女の子の気紛れに、いつまでも付き合っていられないよ。」 女の子は
「小屋の中で何が起こるか、分からないのよ。二人が攫われたり、殺されたり、着ているものを剥ぎ取られる様な気がするの!」 と泣き出しそうでした。女の子は丸木橋を戻りました。
水車小屋からわたしが出てみると、女の子は自分の予感通り、刃物で刺されて、血を流して倒れていました。ほんの一分足らずの出来事でした。
「通り魔が、林の入り口に潜んでいたんだ」 としかわたしには説明できません。女の子を引きずって、通いなれた本道にでると、大人が数人出てきてはやし立て、わたしをひどく叱りつけ、わたしの言い訳もきかず、女の子を病院に運んでしまいました。独りになったわたしは牛蛙が浮かんでいる田んぼの夕暮れを、泣きながら眺めました。カミナリが遠くで光り頭上を過ぎ消え去りました。わたしは難破船に置き去りにされた船長のような気持になっていました。

どの子を欲しや
あの子を欲しい
あの子じゃわからん

新津の林から、子取りの囃子うたが聞こえてきました。風はまだ黒塗りの自転車がめずらしかった頃、100年も昔の、新津の光景を思い出しました。思い出の層が、新津の林の周りに、地層のように幾重にも重なっていました。大げさに言ってしまうと、地球のはじまりからの地層が風に思い出させているのでした。
記憶のプレートの隆起で、過去の地層が跳ね上がったりするのです。大正時代の女の子のヒマワリのような顔から、汗がぐるぐる飛び散りました。微細な光の点線が車輪の銀色のリムやスポークに反射していました。風は光の渦に取り囲まれていました。¥風と光は絵描きさんに写し取られまいとして、うなぎのように、逃げました。絵筆より早く。にゅるにゅる、と。
どんな話会いがわたしと女の子の親の間で執り行われたのかは分かりません。ほんの一分足らずの出来事でした。それからというもの、わたしと、女の子と男の子が一緒にこの道を通うのを見なくなりました。100年前と60年前と、今が輪になって繋がり海馬に残る思い出となりました。カミナリ雲は春野町の果てまで吹き飛ばされて、こちらを睨むように消えてしまいました。空はさっぱりと晴れ渡り、一番星が輝きました。
風は切り倒された大杉の跡地に建ったスナックに、勢いよく吹き込んで暴れまわった様子なのです。



南アルプスが病院の窓枠いっぱいに連なっていました。手術室入り口のペダルを、看護士が踏むとステンレスの観音扉が、パカンと開きました。舌癌手術の患者が運び込まれました。手術用のシェルターで、麻酔薬が打たれ、秒読みが始まりました。キョロキョロ覗いて居るのは、手品で客席から呼び出されたような、役割も分からぬ患者でした。それも、麻酔が効いて来るまでの十秒間足らずのことで、後の事は闇の中。
脳波が蛍の群れにように輝きました。それは世界同時多発クリスマス・ツリーのように暴れまわった様子です。そばでは
「蜘蛛の巣をとったら蜘蛛を殺して置かなくっちゃ」 こんな声が響いていました。舌癌の腫瘍の切除と、転移の予防について、医者の独特の符牒だったかも知れません。黄色いシーツの真ん中から首をだしている患者には何も聞こえません。
「あの時、あんなことをしていなければ。もっとはやく気が付いていれば」 と嘆き。不治の病と死を受け入れ再出発する二度とない瞬間でした。腰のあたりの要所だけが、くたびれたファスナーでつながって、もうそこから先は覗けません。言葉の無い場所なのでした。他人の感じている傷の事が我がことのように分かってしまう。記憶には残らないが行き成り忘れられない感情になってしまうのでした。どの手術室の蛍光灯も涼しげで、過ぎた季節のアジサイのように、また色を変えようとして輝くのでした。そこは薬品に連れてこられた、一人孤独な臨床でした。まわりの助手たちは霊安室と病室を同時に整えようと、患者の開かれた患部のそばを走り回りました。麻酔の効いた脳から搾り出された風は院外にも飛び出しました。そして、うろこ雲に乗って、やがて浜名湖の湖面に、投網でも打ったようにずっしり沈んで行きました。鉄橋の新幹線は11両編成で、後ろが前にもなっていました。激しく吹き荒れていると天と地が逆さに見えて消えました。
患者から体外離脱した風は、寿荘にたどり着くと、ブレーカーが落ちてガスも止まり、主が入院していることを知りました。誰もいなくなった寿荘の個室は人を飲み込んだ底なし沼のように知らん顔をしていました。



鎮守の森では三人の腕白小僧が熱いセミのおしっこを頭から浴びたところでした。セミはおしっこを空からばらまきながら飛び去りました。セミはめまぐるしく飛び交うので、最初の一匹が分身するのだと錯覚していました。でも、その日のセミは、うす暗い鎮守の森をなんと低く、横切ったことでしょう。セミの体にけいれんが走り、三人の足元に仰向けに滑り込んで来ました。散々三人に向けて、水を捨て身軽になっていたはずなのに飛べませんでした。年長者のわたしがすき透ったまま重くなる飛行物体を、空高く放りあげました。そしてほっと仲間を、振り返りました。電線で狙っていたカラスが素早くそれを拾って食べました。
風は驚きのあまり、大楠の洞穴に逃げ込んでしまいました。風は澄んだ眼差しをするだけが精一杯で、セミにも三人にも何の役にも立てずに消えたのでした。
雲立ちの大楠は樹齢2500年を過ぎていました。梢から雲が立って家康を救ったのを風は昨日のことのように覚えています。しめ縄を張った大木は疲れたように根っこが地面に盛り上がり、少しずつ腐り始め割れていくのでした。社殿の右側には土俵が雨よけのシートに包まれて、夏のお祭りを待っていました。
春には、白い花が神社を取り巻いて咲きました。お昼時のせいか、人っ子一人居ませんでした。
「待てば、去年の夏の三人に会えそうだ」 と思っていると、蝶を追って駆け出して来る、風がありました。
今度は春一番つぃて、荒々しく吹付けるのです。それが大真面目で、蝶を追い詰めているように見えるのでした。例えば、探し物を取り返す勢いで、形相までも鬼にして、老木を鞭打ち、無理やり若返らせようとしました。ですから、風は祠を狙って、飛び込んだり、飛び出たりしているように見えました。風は緑の楠の葉と葉裏の帷子を、後ろ前に羽織って、一日中荒れ狂いました。するとどうでしょう。あたり一面、花吹雪ではありませんか。風は屈み込むと、両手で筒を作り、遠眼鏡でも覗くような振りをしました。そしてあの三人の腕白を見つけました。
「あーら、去年のセミの事も何の役にも立てなくて気にとめて今年も覗きに来たこの風の事もやっぱり、何も覚えてないのね」 辺り一面、花びらの白い雲が立ちました。腕白の三人の顔が楠と桜の木を、不思議そうに代わる代わる見上げていましたが緑の風を見つけることは出来ませんでした。



あの時、山から波へと、道を切り替えていなかったら、こんな事故は起こりませんでした。自分の思惑で出来ることはわずかなものです。何もかもが後の祭りになって行く様に、思えてしまうのでした。地震が奈落に海水を飲み込んだとき、白い風はその波頭と一緒に渦巻いていました。やがて津波の背を押して、海岸に思い出を追加し消耗するように次々と押し寄せました。波は信号機のある交差点をアスファルトごとめくり、人も大勢攫っていきました。逃げ惑う人々が流れてゆく家の屋根に追い詰められ、風に手を振るのでした。波を追い越してみると、そこには高波に追われ、子供を抱いて逃げ惑う人々がいました。そのときになって、風は大きな罪を犯したような気持ちになりました。だから今朝は何事も忘れたくて、中田島海岸の波頭とたわむれ、充分反省してから寿荘にゆっくりと近づきました。波は相変わらず、白馬の鬣のように逆巻き暴れました。でも中田島の波は飼いならされたように、防波堤のこちら側で規則正しく引き返してきました。人を家ごと攫って行った恐ろしい津波と、同じ波だとは、とても思えません。それから、道を切り替えて陸に上がって寿壮に向かいました。道すがら、佐鳴湖の片葉の芦から、飛び立つウグイスとテントウムシとカタツムリに会いました。テントウムシは自分の巣が
「火事だ!」 と、子供たちに囃し立てられて、飛び立つところでした。風は自分に向かって言われたように思いました。津波の肩を押して、災難を招いたことが蘇ってしまったのです。でも、テントウムシは子供たちに騙されたのでした。空にむけた人差し指の天辺で、飛び立つほかなす術が無くなったとき、子供たちにタイミングよく囃し立てられたのです。「テントウムシ、お前のうちが火事だ」 テントウムシの背中は太陽を反射して、背中が燃えるように光りました。
「かわいらしい背中の火を使って、テントウムシの狭い茶室で、虫達を呼んで茶会でも開くのだろうか」 強情な嘘をついた子供たちでも飛び立ったテントウムシを惜しむように、そんなことを思っているのでした。片葉の芦でかこまれた茶室のお客さんは、一体誰なのでしょう。白い風の右肩が、にじり口の障子をこすって横切りました。芦の葉を這うカタツムリを、ウグイスやモズが食べているのも見ました。カタツムリの思い出のすべてを、ウグイスやモズが引き継ぐのだ、と思いました。そうでなくては風の罪は消えないと思えたのです。たとえすべてが火山とともに消え去るにしても、すべての思い出が一斉に燃え盛って風になるのです。そう、風にとって、死や別れは生命体だけに起きる類まれな現象に過ぎません。
「カタツムリがウグイスやモズの中で燃料として燃え尽きている」 白い風には、ウグイスやモズはカタツムリの記憶を燃やして飛んでいる。未来の省エネ型円盤のように見えました。白い風はカタツムリが赤ちゃんの頃、芦に歌ってもらっていた
「ゆりかごの歌」 や。
子供を生んだ頃歌っていた
「カタツムリの子守唄」 を思い出して
「びゅうびゅう」 と、ご詠歌に編曲して繰り返して歌いました。
風は寿荘の個室にたどり着きました。
「さあ!」 と、主人に意気込んで話し掛けようとするのですが。電気スタンドの傘の中で、急に勢いをなくして消えていました。



透明のペットボトルで作った風見鶏が寿荘の入り口にありました。それはプロペラつきで、いかにも村の発明家が考え出したような代物で、街中のいたるところでカラカラと回っていました。
寿荘の西南の方角では、結婚式専用のトリニティー教会が防風シートをすっぽりかむって本体を消して、最後の仕上げに取り掛かっていました。真南にある大学の正門は西向きの大きなガラス壁に囲まれていました。近隣のコンビニ入り口から漏れる光を、ラメ色に照り返していました。蛾の群れがガラス壁を襲っても、それは本物の光ではありません。蛾の大半は、大ガラスに映った光にぶつかって落ちてしまう運命なのです。電信柱の変電気は風見鶏がつくった透明の夜風にあわせて、低音のビブラートで蛾の運命を嘆くのでした。
「あんた達、カワセミをちょっとでも見習ったらどうなの。カワセミが水面と鏡をどうやって見分けるのか」 そうです。カワセミは、水面を鏡と間違えず、思い切り飛び込んで餌を加えて戻ってくるのです。そのカワセミの用心深さを忘れてしまったために、蛾の死骸の山が出来ているのでした。風は映画の透明人間のようにガラス壁を、すり抜けられると思い込んでいました。しかしそのガラス壁という奴は、一筋縄では行かない鏡に姿を変えるのです。そして飛び込んできた透明の滴を、わたしに送り返してきたのです。
この見えないはずの透明な風に、向けてーほっといてくれれば、そのまま校舎を通過できたかもしれないのに。強情にも程があるじゃないですか― 透明の風は水銀のように丸く固まりました。鏡におちた一滴はポロポロと分裂して目に見えないほど、小さくなっていきました。やがてクオークになって、時と空間に吸い取られるように消えてしまいました。風見鶏から、次に生まれた風は蜘蛛の巣が物干し台からザクロの木にしがみつくのを揺さぶりに行きました。ザクロの爆ぜた実や、風見鶏の周りで軽く渦巻いていると元気が湧いて、寿荘の君の部屋を覗いて見ることにしました。君はもう出かけて留守でした。西側の窓が開けっ放しでした。プリンターから、紙が50枚も舞い上がり窓の外へ飛び散りました。画面はこちらを恨めしそうに見て、がたがた揺れましたが、しばらくすると節電モードに切り替わって消えました。風は
「これ位が、ちょうど良い」 という事が分かりません。なに事もやり過ぎてしまうのです。ある時などはちょっと力の入れすぎで、山頂からザイルでつながれた登山者達の背後から襲って、バラバラに吹き飛ばしたこともありました。サーファーやヘリコプターや熱気球や縄跳びを絡め取って、人の遊び心を、冷やしてしまった事もよく在りました。この部屋にきてから飛ばした大物は、消し忘れた電気ストーブでした。倒れると消えましたが火事になるか、と思いました。そんな留守番をしていると台所で
「プシュ」 と、音がしました。洗濯機へ給水を終わったホースが弾みではずれました。水が勢い良く飛び散り、流し台から溢れ出しているではありませんか。風は慌てて、蛇口に飛び乗りましたが、どうすることも出来ません。水に驚いたねずみが台所から飛び出して部屋を駆け巡りました。
ゴミ箱へ飛び込んだと思ったら行き止まり。柱を駆け上ったが、天井への抜け穴がありません。それでまっ逆さまに駆け下りました。物干し竿のシーツのほうへ帰りかけた風はもう一度窓から戻って、ねずみとの鬼ごっこになっていました。でもねずみは風などちっとも恐れず、ばかにして、すばしっこく追いかけてきます。
それで、ねずみの顔のそばでアルミホイールを思い切り揺すってやりました。ねずみは散々暴れまわって、ひみつの脱走口から部屋の外へ逃げ出したようでした。隣の猫が居る物干し台の方へ。その間も、水は壁を伝って下へ下へと流れ出していました。一階から女性の悲鳴が聞こえてきました。すぐに階段を上る音がして、玄関のドアをドカドカ叩きました。しばらくすると、白髪の大家さんが入ってきました。水道の頭をちょこんとひねりストーブの電源を抜き、西側の窓を閉め、やっと一階の女性を黙らせました。風は何事も無かったように、部屋の外にでることが出来ました。カラスの集団が電線から物干し竿に降りてきて、猫が加えたねずみを横取りしてしまいました。こんなときカラスは鳴きませんね。



二百十日の今日、鎮守の森で獅子舞を見てきました。獅子舞というのは老いさらばえた強情なライオンの事を踊っているのですね。その吹流しの静けさはガラスの鏡や電気スタンドの傘で消えた時とは違いました。聞き耳を立てていると、ガラスの鏡のような水面を抱きかかえ、撫でている水澄ましのような穏やかな気持になるのです。サバンナのライオンの最後の熱い息が黄色い風に乗り移って消えていった瞬間でした。たてがみが枯れて体の肉はたるみ、顔は毛が抜け落ち塗り残しのある自画像のようで。老いたライオンは立ち上がって縄張りと家族を振り向くと、踊るように茂みに消えました。風はライオンの
「ヒュー」 という喉鳴りにあわせて同じ波長の口笛を送ったのを思い出しました。風は怯まずあのライオンと同じように最後の一歩を出してみました。スフィンクスからの質問に答えるように緊張していました。
答えを間違えて風は翼をもぎ取られてしまうことも覚悟しました。そのうちライオンの最の喉鳴りが切ないほど羨ましくなりました。風はひと呼吸すると経帷子である獅子舞の衣を引き裂き、衣もろとも昇天し、終わりの無い憤怒の竜巻となって暴れ狂っているのでした。            

(2009・9・31)

2010年4月6日火曜日

服喪のスートラ8 シェットランド犬シェーンが唸った



浜松東京間の車酔いだけでなく積年の疲れが「ウー」と出て気がつくと入院
「シェーン」と呼んでくれる主人とも別れ 知らぬ影に囲まれ点滴などという拷問
役立たずの足などおいらの一部でもなんでもない もう全身が邪魔だ
かつては 今いるところと 向かっていくところが すでに走っていて遠吠えし
動植物 火 水 土 メス犬や餌の臭いが ワンワンしていた
それが今病院の中でテンになってしまった

テンから痛みが発しているが 体の何処と特定するのも億劫だ
体内宇宙を血液列車に乗って心臓にたどり着いたと思ったら入院
心臓が呼気と吸気を連動させて勝手に生きて居やがる ワンワン
音源を求めるが おいらは目も開けられない 頭上の電灯さえ拷問してくる
「ウオ―ン ウオーン」寝言の遠吠え
血の糸を伝わり来る鼓動 糸電話の呼び出し音が邪魔だ

おいらの自由の身には首輪は邪魔だ
自立したと思ったら病院の天井の監視カメラのテンになっちまって漂っていた
ドッグフーズの缶詰やとんかつフライドチキンのオーラから遠く離れて おいらは気持ちだけの遠吠えをした
主人が見えないのは そこに居ないからでは無い おいらが入院を認めないからだ
おいらだけが仰向きにベッド括られ拷問されてるからだ
でも痛くもなんとも無い 気持ち良いぐらいだ ワンワン

おいらは都会というサバンナを億の人類の全裸体と一緒に エメラルドのそよ吹く風となって走っていると主人に報告してやろう ワンワン
空腹とか愛着とか取るとか預けたり借りたりの金利が邪魔となり
曼荼羅模様の鳥達から鳴き付かれるような 地を這うおいらへの拷問
鳥達は火山の噴火にあっても隊列を崩さず落ちてくるテン テン テン テンと
入院以来 懸命にうごめく生物が 空を埋めて色盲のハイビジョンに映りっぱなしだ 
「シェーン」主人の遠吠えもしている

バリカンでおいらは丸刈りにされた 頭は難しくて残された ライオンに近くなったあの夏 主人のほうが「うーん」と遠吠えしてた
ペニスの周りは敬遠されて手づかず ススキ色の白い毛に包まれた亀頭が ピンク色に幼稚っぽく覗いて ライオンに成り切らないのだ ワンワン
付き合いで主人と朝からビールも飲んださ それであっという間においらは入院さ
酔っ払ったおいらが運動不足にならぬよう皇居一周に連れて行ってくれた奥さん あれは はっきり言って肝臓に邪魔だった
おいらが女を知っているとか知らないとか 話題にされてた日常の広がりが急に病院でテンになってしまった
主人と奥さんの別居が おいらにとっては拷問だった

「個人の自由を求めての発展的夫婦解散」は 娘さんにも拷問だった
別居してからも顔を合わせないように 頬かむりして餌を持って主人の横にそっと座った奥さんに おいらは切な過ぎて遠吠えした
延命治療はやめてください 手のかからないテンになって消えるつもりです
皇居一周の際にでも タンポポの種に混ぜて お堀にでも放り投げて下さい ワンワン
あの夏 主人と外に出たとき、すぐ女学生が反応して「あっれー やだ やだ やだ」主人は持っていたおいらの綱をポロリと落としたもんだ 急に邪魔者扱いされたっけ
忠告しとくが 主人もこれ以上酒を飲み続けたら 確実においらを追いかけて入院さ

もうすぐテンもさっぱり消えるだろう いまさら励まされると拷問だ
おいらとの繋がりを落した主人は入院だ 誰にも届かぬ 犬笛のような最後の遠吠えさ 
綱を落した罰だ ワンワン 赤い糸が爪からD(ドッグ)・F(フーズ)の缶に繋げてあるのが 邪魔だ   

(2008・05・31)

服喪のスートラ7 プルトニュウ夢



暗い右扉から沸いたように二人の男が進み出てミイラを箱に入れている
左の箱の中は分からない 目の前のは胎児だ 男供はそれを斧でズバッと割った 
どんな局面にも「逃げないぞ」そう覚悟を決めてしまえば夢は怖くない
すると映像を伴って大気圏外に飛び出すものが在る
金剛界曼荼羅が宇宙軍団となって迫ってきたが 太陽風に失速して路地裏ドラえもん竹コプターやブリジッド・バルドー ブラジャーのワイヤーに引掛かって落ちた
それからは飛べなくなったが電柱の下からも粗筋だけはどんどん続いている

花川戸から霞ヶ関で降りたつもりが飯田橋だった 桃の花が満開で教授たちは二日酔いの影を引きずっておつな登校風景がしばらく続いた
鉄パイプの策がぐらぐらゆれているのを飛び越えキャンパスに入ると
「本学学生は学校側と団交中 入学希望者は遅刻で共闘して欲しい」とヘルメットが神楽坂のほうに目線を上げた
ここで共闘すると面接に遅れてしまう 共闘は面接の隠し味かもしれないがまだ入学していないのでそこのところは分からない 立て看板が校舎と講堂を割っていた
交互に舌を出しながら二人連れの女が追い越していった ブレイクの「最後の審判へ向かう告発者 裁判官 死刑執行人の三位一体」という水彩ペン画があったっけ
ヘルメット連が窓ガラスを一枚残らず熱心に割って入学祝いしてくれた

上映とオープニングが終わって暗幕を引き寄せようとしたとき
稲妻が二本走り 神楽坂の丘陵から電子レンジ ガス台 茶碗 火炎瓶などガラクタが風に乗った羽毛のようにあふれ続けた
「校舎は高台にあるので入学に支障は無い」とマイクは叫ぶのだが針の無い時計台と机の下に隠れた生徒を何から守ろうとするのだ 一体どこの墓穴が吹き出したのだ 何時の誰の漂流記なのだ ここにあるのは
「電源は切ったほうが良いのでしょうか」
神楽坂を転がり落ちる燃えない金のゴミに 燃えるごみ 犬猫人体から すずめ ゴキブリ
薪能仕立ての講堂ではイントロとして花川戸木遣り団が櫓を一本づつ鯔背に担いでいたが 閃光におどろいて全員が肩から落とした

演壇からヘルメットが顔を出すと新入生の涙が一斉に机にぽろぽろこぼれ落ちた
学食ではさきほどの二人連の話
「君たちとは一度どこか出会っているよね」思い切って話に分け入ると
「この人 子供まで作っておいて 忘れてるわ」顔を見合わせ百円寿司を食べ続けた
「さっき変な夢見てたんだ 神楽坂方面に 二本の火柱が立って」
「議事堂は狙われるようなことをして居たんでしょうか」

結局庶民は 議事堂に一センチ四方の穴を一発も開けられずに黙って居たんでしょうか
年端も行かない電気少年が コンピューターで 電気釜やチンのなかにプルトニウ夢を落したんじゃないでしょうね
キャンパス発の逃走用バスは 今燃え上がった神田川聖橋に入った
中野で百円寿司屋を覗くと例の二人が食べている
「さあ戸を開けて早く外の状況を見なさい」二人は黙々と食べ続けた
中野から荻窪への区間中 焼け焦げた生物がいくつも転がっていた

半透明のきのこ雲が広がり担ぎ切れない柱が割れ
「えー うっそ」という金切り声があった
荻窪行きのバスの固い座席で フォアグラをぬかれた鵞鳥のように揺れ
手の甲はブリキ栓を握り潰し 顔頭は落ち
電池はあるのにニュースはない
バスはビルが無いのにビル風が吹く 火焔地帯に入った

六弁のスピーカーが韻も踏まず がなり続けた  
ブリキの栓は食い込んで体内に入った 火と風がプルトニウ夢の雨に木霊し
ザーザー鳴る 肌身離さず愛用の携帯ラジオ「怖ちゃん」も落としていた

(2008・05・31)

2010年4月5日月曜日

服喪のスートラ6 トマトの踊り



二つの安楽椅子衰弱体と老体 互いの顔についた飯粒を取り合って食らう性愛
睾丸をブラーッと遠心分離させて ボウルを投げ込むと「カッチーン」と鳴った 恩寵
1234,2234,3234,4234,5234,,,8234の肉体脱落指南
新聞紙張り重ね 分厚い書割でうごめく畦道歩行図譜
真っ赤な処女肛門 生で最もおいしい料理 甘いトマト
「にしわき さーん」客席を見返して死児たちが瞼で踊り

蚊人間の吸い口を客席に突き込んで
大野一雄のバックから 半陰半陽持ちつ 持たれつ
レコードのリフレーンに 転がった終りの無いトマト
白塗りの立ったままの死体が 無い綾取り紐を綾取って臨終に近寄ってゆく
書割「アダムの創造」が怒りに触れ 残ったET状態の指まで切断された
人影は無く マルドロールの棒切れがある

老年女形の色気について土方巽は 大股開き指南
上手非常口から登場の人物に照明係は嫉妬し 音響も同調して盲目踊りがすっ飛んだ
盲目は劇場からサーと引き上げると自宅アパートの窓に嵌まって半日の擬態窓枠体
擬態は噛みしめていた 犬の腹への嫉妬
その足跡をたどっていけばガムランからの恩寵
ジュースになって戸外に飛び散るトマト

1968年紀伊国屋ホール 二日目はうまくいった トマト
かすれるような音量「こんな別嬪見たこと無い」 川辺の隠れアベック
お互いの顔から奪う飯粒
空手振りの機械時計仕掛け
冷やし中華の肉体が マカロニ管へ 挿入される
アスベスト館に転がっていた雑誌付録赤いソノシート 

夜ゼミが風倉を鳴き満たし 照明が天井を駆け巡り テープを巻き戻すピンク・ノイズ
HOW TO  DRESSING UP THE VIRGIN  TOMATO 
音響室助手とチーフ 舞台監督 照明から遠く離れ 晒されたホワイトノイズの
筋子の腸  キリストは 死の直前に エリ・エリ・ランマで
「セーノ」と起こされて臨終する
不在が回収していった風倉 尽きない数々の見落とし 小杉 川仁

猫を袂に入れてボーダーライン 横切り
消された図譜「アダムの創造」 指はリヴォルバーに伸び
もんじゃ焼きのコテを 前髪飾りとして頬肉をこそぎ
蕩けたハンダ鏝の吃音が飛び交い舞台監督は「セミ セミ」と音響室に罵声投げつける
頼まないのに来た音響助手に感謝 ミュージック・コンクレート
現実のスタッフ達は 機材の影で立ったまま死んでいた インドネシア経由の性愛

死体の踊り 渋澤龍彦 吉岡実 琺瑯深皿大盛り 中華風肉団子
髭女と鬼籍老女の両性具有 消えない白い刺青
「下田夜曲はやめてくれ バッハ バッハ」 聖ボッカチオ風家庭料理の方へ叫んだ


(2008・05・31)