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2010年4月12日月曜日

服喪のmur-mur2 ババは もう そう長くない (注)



なにも映し出さない鏡を、印度の行者が作りました。
「なんでも、同時に映る鏡を欲張って作っていたら、失敗してこうなってしまったんだ」
じっと見つめる目は焼けただれ、伸ばした手は溶けてしまう。
嗅いだ鼻はもげ、なめた舌は焼けただれ、体は写らず、どんな思いも届かない。
訴える声。
雷の脅しの音。
どんな音も、鸚鵡返しに相手に返される。
それを聞く耳の鼓膜はやぶれ。
植物の樹液が木を駆け上るかすかな音も、聞き届けられることは一切無く、鸚鵡返しで、弾き返されてしまう。
わく組みだけの、鏡のようだが、なかは坩堝になっていてバチバチはねている。
ドロドロに溶けた数字のゼロのような、のっぺら坊の熱の固まり。
のぞく顔も映る空も、吸い取ってしまう。
身を投げたひとが永遠に人柱になっているような、深い井戸の底の冷たい石に似ている。しかし裏側からはブラックホールのように硫黄の煙を、もうもう吐きだしている。
そのマグマの鏡から、ひとかたまりの光が噴射している。
あるとき川辺の柳の木に、破片が降りそそぐ。それが、水面に落ちるのを、行者は見逃さなかった。
さざ波とも、刃とも知れないものが泳ぎ始める。
やがてそれがシシャモとなって、川を遡るのを見届けた。
「その鏡は物を写すより先に、いきなり動物の食べ物になろうとしたんじゃ」
「そのシシャモはマグマの鏡から、いきなり運ばれて来たんじゃ」
「下町浅草の夕餉の食卓に、銀色の串刺しのシシャモが並び、金色の卵が胃に落ち。卵は孵り、稚魚になって泳ぎ始める。そして、人の体のあちこちに透きとおった卵を、産みつけ・・」 行者はそこまで言うと、役割を終えた手品師のように消えました。

おひなさまのつぎの日でした。
兄と妹は甘酒でほてった顔を、窓から出しました。
窓ぎわに置かれた植木鉢には、エンドウやナス、トマトの花が咲いていました。
犬は物置小屋で生まれたばかりの子猫を見つけ、甘えるような声を掛けました。
その暗闇をふたりがのぞき、子猫を犬から救いました。
犬は遊び相手を取り上げられて、鉢の花に八つ当たりすると眠ってしまいました。
そんな騒ぎを、ベッドで笑いながら見ていたババが言いました。
「わしにもその白酒の五合ビンを、抱かせておくれ」
「ババ、ぼく達、これからあんまりババの役に立たないと思うよ。御雛様には一日、間に合わなかったしね」
「気にしないよ一日ぐらい。で、どんな白酒だい。軽いやつかい」
「長野産のもち米で作った、『富士の白雪』だよ」
「なんだって、」
「知ってるだろ。よく飲んでた『富士の白雪』だよ」
「ほらこれ」 ババに渡す。
「また馬鹿に大きいビンだねババの赤ちゃんにしよう」 ババは両腕でビンを抱きかかえる。
「南無阿弥陀仏。こりゃまた重いねー」
「今、湯飲茶碗一杯だけ飲んでいいかい」
「すきっ腹にいきなり飲むの。何か食べたの」
「食べなきゃ飲んじゃいけないのかね。飲みたいんだよ、それだけなんだよ」 ババ一杯飲む
「何も食べてないから良く利くね」
「赤ちゃんと言やーね。東側のポプラの木を見てごらん。蜜蜂が赤ん坊位の大きさになって群れているよ。昨日、病院から攫われたという赤ん坊ね。わたしが睨んだところ。あの中にいるよ」 孫たちに言いました。
「ババ、今日は、ばかに飛んでること言うんだね」
「そうさ。女王蜂は寝たきりでも赤ちゃんだけは大昔から大事に守ってきたからね」 ババは言いました。
「ババは、いまの事を忘れる分、昔の事を思い出して、手に取るように分かっちゃうんだ!」 孫たちはババに調子を合わせて頷きました。
「群れの一匹がさっき犬を刺したんだよ。犬の奴、それで暴れたんだ」 ババは眉をひそめました。
「町内会の騒動に、ならなきゃいいがね」 ミツバチの群れがいる、ポプラの木を見上げました。
そのときババにはポプラの枝から、大きな影が飛び立つのが見えました。
ババはぶよぶよ動く蜂のかたまりを見ているうちに、いつか一緒に暮らしたことのある、フルーツ・コーモリを思い浮かべました。
その瞬間、その想像のコーモリが飛び立ったのでした。
それが孫たちにも伝染して、三人とも夕空に「ふわっ」 と、舞い上がったような気がしました。
薄暮の大魔が時でした。

コーモリが飛んでいった先はね。鍾乳洞でしたよ。
トンネルは洞窟の中で枝分かれし、袋小路になり、大広間になり30メートルの滝つぼに繋がっていました。
そこは、巨大な恐竜の胎内のようで、散歩していると、2400年が過ぎてしまうタイムトンネルだったってわけさ。妙に落ち着くところでね。年中気温は摂氏18度なんじゃ。
コーモリがそこに入ったと思われる薄暮の瞬間、ババの顔がぱっと輝きました。
そこは2400年も昔の若い頃のババと、その子供たち50人の住みかでした。
洞窟に巣くっている、フルーツ・コーモリを操って、夕方から夜にかけて町の空を飛び回り赤ちゃんをさらいました。
コーモリはこの洞窟でわたしに獲物を渡すと、やっと自分の餌を探しにとび立ったものです。コーモリがこの順番を間違えると、わたしの末娘が昼間、竹ざおで天井から叩き落すことになっていました。
その日も、新鮮な食材がまな板に並びました。
「今日も、くたくたに疲れたわ。でも、ご馳走なのよ。わたしの留守中、怠け者のコーモリはいなかったか」   若かったわたしは末娘に聞きました。
「いなかったわよ。それよりね、変わったことがあったの。入り口の睡蓮池のそばで、女がふたり口もきかないで座っていたのよ。一日中。私、食事を運んであげようと思うの」 わたしは釜戸に薪を投げ込みながら
「怠け者に、食事を恵むなんて許しません。あれは座ってばかりいる怠け者なのよ」 わたしは髪の毛に燃え移る、かまどの火の粉を、払い除けながら末娘に答えました。
「わたし達にはお腹をすかせている兄弟が50人もいて、今仕事を終えて帰って来るのよ。座っているひまなんて、家の子にはありません。無駄口を聞かないでミート・カレーのお皿を、どんどん並べてちょうだい」
次の朝、わたしは女弟子たちに毒づいてやりました。
「行者の弟子なら、なんでも出来るはずだわね。となりに咲いてる睡蓮の真似でもしてごらん。朝、塵芥の中から顔をのぞかせ、ポンとはじけて咲き、夕方は花びらがダイオードのように光り。夜は蕾んでまた汚れた水中に沈み。それでいて何も誇る様子もない。それが出来ないぐらいなら、金輪際娘の前に姿を現さないでおくれ。こちらは食うだけで、精一杯なんだから。人の怠けた姿を、娘に見せないでおくれ」 女弟子達は
「人は、睡蓮の美しさには、かなわないのよ。わたし達は、こんなもので出来ているのよ」 体をぽんと裏返すと、目玉をはずし舌を抜いて、お腹の臓物もどろどろと手のひらに載せて見せました。そして
「何もしないで、いくら怠けて見えても常に動いてしまうのがこの臓物なのよ」 と言いました。
わたしは気絶しそうになり二人をますます軽蔑しました。
夕食のしたくをしながら、末娘に耳打ちしました。
「あそこに近づくの、許しませんからね」
「あら、どうしてなの」
「『赤ちゃんを、さらわれた親達が行者の道場に、かけこんで泣いている』 と今日、町で聞いたわ。わたしがさらったと、うわさが立っているのよ。親の不注意のせいなのにさ。わたしひとりを、悪ものにするんだよ」
「それでわたしはどうしていれば良いというの?」 娘は聞き返しました。
「言いふらしたのはあそこで、いつも座って見張ってる、あの女弟子二人に決まってる。だから、あそこに近づくのは絶対許しませんからね」

次の朝、末娘が見当たりませんでした。
「懲りもせずまた、来ていやがる」 わたしは腹いせに女弟子に食って掛かりました。
周りの睡蓮を引き抜き二人に投げつけると
「この役立たず。怠け者。疫病神。大切な末娘を探してくれたら。何でもくれてやる。もしおまえらが隠したのなら、私の命と引き換えに、返してくれ」 わたしがそう懇願すると、女弟子はやっと口を利きました。
「道場に来て悩みを打ち明けると良いでしょう」 と、わたしを道場へ案内しました。
行者は泣き崩れる、わたしを見て、
「50人もの子宝に恵まれたのに、その中のたった一人を見失っただけで、身代(みが)わりになりたいほど悲しいだろう。どの親も同じなんだよ」 静かに言いました。
「その子がもう鬼に食われて、骨になっていたらどうだね。これからは、攫った子を食わないことだね」 自分は鬼だったのだと、思い知らされた瞬間でした。
胃の腑のシシャモの金色の卵が、いっせいに孵ったように、体中が花火のように閃き渡り。わたしは吠えるように泣き続けておりました。
「ちょっと、こちらを見てごらん」 見上げると、行者の衣のすそから末娘がわたしを見下ろして立っていました。
「反省したのなら、今までの事は許さなければなるまい」 
行者は言いました。
「わたしは急いで洞窟に戻り、わたしが鬼だった時、さらった子を悲しむ親のもとへ、フルーツ・コーモリと手分けして送り届けました」

「へえ!」 孫たちはため息をつきました。
わたしが行者の前で、涙を流したとき、東側のポプラの横に、虹が立っただろ。
あのときが、虹になったんだよ。
それから私は急いで、赤ん坊を返したんだよ。私が帰した赤ん坊の中に昨日病院でさらわれた子がいると良いのにね。
しばらくすると
「昨日さらわれた赤ちゃんが、病院の玄関で元気一杯、泣いているところを、警察に無事保護され両親の元に返りました」
って、テレビが言いますよ
ひな壇の右上はお父さんのバーチンカ。左側がお母さんだったこのババ。
下の段に、末娘と、数え切れない兄弟達。
ひな壇は昔からそんな風に、順番が決まっとるんじゃ。
「ババはどうやってタイム・トンネルをくぐって大昔に行って来たの」 孫が聞くと、
ババは
「はあて」 と、考え込んだが当たり前すぎて、説明する言葉が見当たらないとでも云うように
「この頃は息を吸うときに、余計なことまで思い出して、吐き出すときに大事なことを忘れてしまうんだよ」
ババはそこまで言うと役割を終えた手品師のように
「にいっ」 と、自分だけに笑って深い眠りに落ちて行きました。    
眠りの落ち行く先はなにも映し出さない鏡の中でした。
最初のシシャモの金色の卵が胃に落ちて体中で卵は孵り、稚魚となって泳ぎ始め。
そして2400年ものあいだババの体のあちこちに、透きとおった卵を産み続けた。
そのシシャモがさざ波とも刃とも知れない光となった。
それがフィルムの逆回転のように川を上り川辺の柳の木に遡上し。
空に舞い上がり産みの親であったマグマ鏡に、一塊の光として擬縮する。
「印度の行者が何でも同時に映る鏡を欲張って作っていたのもほんとうのことで。失敗して何も写らなくなったのもほんとうで。何も写らないから何でも見えてしまうのではないか。行者が衣から娘を出したように。きっとあの衣こそ行者の発明品なんだ」 孫達はそう思って、おばあちゃんの肩に毛布をそっとかけ直しました。
「ババはわく組みだけの鏡、と謙遜して言っていましたが、本当は中身がいっぱい詰まっていたからこそ、坩堝のようにバチバチはね、ドロドロに溶けたゼロのような熱の固まりが行者にははっきり見えていたはずです」 眠り込んだババの前で孫達はあれこれ推測して、もじもじと見つめ合いため息をついてベッドを時どき覗きこむのでした。

(2009・8・27)

(注) ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ 「エレナ」より引用