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2010年4月15日木曜日

服喪のConte4 「眠り姫」のなりそこね達



裏庭で
「ユズの大ばか18年」が、今年初めて実を付けたところでした。
「はい、杉の木になってちょうだい。森の杉だよ。春、花粉をぼたぼた落としている奴さ。はい、その杉皮をいまさわさわ洗っていくからね」
父にそう言われて、背中をピンと伸ばしたマサルが、湯船を見るとユズの実が三つのんびりふやけて浮かんでいました。
裏庭から、もいできたのです。
マサルが生まれた記念に植えた苗でした。それが実を付けたのです。
ユズの湯船に入るとその年は風邪をひかないそうです。

なんて、いい香りの実なんだろう。
葉っぱのとんがり帽子を冠って。ところどころに白い小粒な花びらのふちどりが付いている。マサルが
「あなたは誰あれ」 と聞きますと
「マサルと兄弟のように育ったわたしを忘れたの。初めて実をつけて一人前に空を飛び回れるカオリの一族になったのよ!」 
だいだい色の顔を上げ
「天の川にもこんな花びらが一枚浮かんで見えることが、いつかありましたね」 花の縁取りを指差して言いました。
「君はそんな遠くまで飛んで見て来たの。ぼくは、御殿場が精一杯さ」 マサルは言いました
「マサル、その遠い花びらの芯が今チカリと光りました。星が生またのです」 
ユズがそれに気がつくのはかならず新しい星が、生まれた後の事でした。カオリの体ごと溶けてしまいそうな気がして、まともに見たことはありません。
「マサル! 寒がってばかりいないでたまには外に出て星空を見あげてごらん」 ユズはつぶやきました。

「マサルが御殿場にいて留守だった今年の二月この下町に大雪が降りました」 ユズは話始めました。
隣の安部駐車場ではお客様が滑って転んで怪我をしないように。慣れない雪掻きをしましたが、しまいには雪だるま造りのほうが目的になってしまって目にするタドンや、口や鼻にする炭を探して路地裏を駆けずり回りました。
デパートの松葉マークが消え、街の賑わいまで、深い雪に吸い込まれたようでした。
大雪の重さで落ちたカワラ屋根がありました。
わたしはカワラに近づいて
「カワラが空を飛ぶなんて! 昨日は大変だったね。けがはなかったかい」 と、聞きました。
「あのどか雪めが! 弾き飛ばされちゃって、面目ない。あっはっはっ」 カワラは雪の枕に俯いて笑いました。
「君はあの屋根へ、いつ戻るの」 
わたしは覗き込んで聞きました。
「誰かが庭の隅に並べてくれたが割れてしまえばそれでおしまいさ」
屋根にはところどころ穴が空いて、中からブツブツ文句が聞こえてきました。
覗くとそれは昔山奥で花粉を降らせていた杉でした。
「君はずいぶん長い間カワラの下の真っ暗闇にいたよね。ほうら! ユズだよ。忘れてしまったかい」 
杉は考え込んだ後
「そりゃー、おいらは穴の中でカワラを支えて眠ってばかりいたさ! 見てた夢までは、忘れてしまって説明できないがね」 
まぶしそうに答えました。
わたしもカワラも杉も自分の姿と、他人を、見比べました。
そんなわけで、カワラも杉もわたしも、しばらく、自分だけの思い出に、閉じこもって、黙り込んでいました。

次の朝じか足袋に白いダボシャツのおじいさんが、家を覗いて
「こんな手入れの悪い屋根なんてないよ。ばあちゃ、寝込んでいるようだけど82じゃ、わっしより10才若い」
庭から声をかけました。
「92で、屋根にのぼる! やめとくれ!」 
家の中から、おばあさんの声がしました。
「危なかぁない。あっしゃ、この屋根を50年前葺いた屋根職人だよ。14のときから登ってる。こんな屋根は見過ごせねえ。二、三日したら支度して修繕に来るよ」 
ひびが入った壁の隙間から、雪が溶け出して壁が崩れ。風にあおられた塀が隣のアパートのガラスをかすめ。庭の物置小屋に体当たりしていました。
杉は雪どけ水で頬を膨らませました。おじいさんは痛んだところに手を入れて触れていきました。
わたしは乾いた空気を杉のふくれっ面に、吹き掛けました。
杉は森で育った頃と同じ干草の懐かしい香りを浴びて気持ち良く目を細めました。

次の日、風もやんで脛にゲートルをきっちり巻いたおじいさんと、ジーパンの父さんが屋根に這い出しました。おじいさんは天辺で足場を決めてしまうと
「父さん! 断らないよね。6日間で、出来上がりだ」
父さんはそこにへたり込むと肩を落として
「ここは立ち退きが決まっているんだよ。来年には建物も庭も取壊され取り上げられて、誰も帰って来れない更地に、されちまうんだよ」
「父さん! それなら飛ぶ鳥跡を濁さずだ!」
おじいさんは、父さんの肩を強く叩き
「このカワラは製造中止になっている」 
カワラを大事そうに撫でました。
「それで穴の中のおいらはどうなるの。全部直った後のことだけど」 杉はぼやきましたがどこからも返事はありません。
おじいさんはもう物置小屋へ、飛び移っていました。
わたしは、杉から
「まわりが仲良くお祝いしているとき。杉だけが、仲間外れになるのは、なぜ」 と言われたようでした。
「注意! ペンキぬりたて」
「これで、カワラを乗せれば出来上がりさ」 
おじいさんの弾んだ声がしていました。

その夜、わたしは杉のまわりをもう一度「ふうっ」と、ひと吹きしました。
杉は
「君って意地が悪いなあ。何も見えない真夜中に生暖かい風を浴びせ掛けて急に夢から起こすなんて」 と言いました。
わたしは今、生まれた星の事を杉に伝えたかったのです。
ぶるっと身震いしただけで、言葉はうまく出てきません。
「ふん、どうせおいらはすぐにカワラに塞がれる身なんだ。いまさら何かを見る元気なんかないね」 
杉は眼をそむけました。しかし目をそむけた先にも同じ、星空しかありません。
わたしはこの時とばかりによい香りを放ちました。
「思い出したよ。この君の香り! 君は、明るい昼間だけ、おいらのそばに、居たんじゃないね。18年も、家族みたいに一緒だったんだ!」 杉は言いました。
夜空が、幕を開けたスクリーンのように全方向に広がり、杉も、ユズもしっかり繋がりました。

ユズが、そこまで話したとき、父さんに、大人しく洗われていた杉の木は、突然、マサルに戻って立ち上がって、風呂場から飛び出ていきました。

次の日の明け方、マサルは、ユズの香りの、シャボン玉に乗って東空を目指して飛んでいました。
ユズは、スポンジのような柔らかな胸でマサルを包んで、別れのしるしに、真っ白で小粒の花びらをキャップから抜き取るとマサルの髪に刺しました。
マサルは髪の白い花が、枯れないように、裏庭のユズの根方に埋めました。
ガラスのカケラで蓋をすると中に白いカオリの靄が上がり、花びら星雲の芯がキラリと瞬きました。
土をかけ花の墓場を踏みました。
もういちど夢にもどって飛ぼうとしたときマサルの目の前で、なぜかこの家全体が炎に包まれ燃え消えてしまうのでした。

目を覚まして湯船を覗くとごしごしこすって爆ぜてしまっただいだい色の実が三つ浮かんでいました。
冬休みはもう終わっていて、御殿場へ帰る日になっていました。      

(2009・9・15)

2010年4月14日水曜日

服喪のConte2 オルゴールの行方



12・19

戸口で
「トントンですよ」 と言って中へ入った。
「おや!マキリ君、お盆に会ってから半年振りだね。自閉症の施設から何時帰って来たのかな」 御茶ノ水のおじさんは聞いた。
「いまからです」 ぼくは何処かに、何時がいってしまわないうちに、今に間に合わせるように大急ぎで答えた。
「ところで今年いくつになったのかな」 御茶ノ水のおじさんは通り過ぎる豆腐売りを呼び止めるように聞いてきた。
「21才9ヶ月と12日です」 ぼくは答えた。
「へえー詳しいんだね。時々考えるんだけど。マキリと暮らすのって難しいなあ。その詳しすぎるところが結構、厄介そうなんだ。まずマキリと、どうやって暮らしの相談したらいいの。朝起きて顔を洗っていろいろ一緒にやって寝るまでの事、それから起きるまでの事も、筆談でやるの。漫画で約束するの。それってとっても時間が掛かってそうこうしているうちに俺なんか死んじまうよ」 おじさんはお酒を飲みながら言った。
「納涼大会はありますか」 隙を見てぽつりとぼくが聞く。
「夏になると形だけあるけど、今じゃ、担ぎ手がいなくてね。お祭りのおみこしもトラックに載せて引き回すんだよ。町会に引っ張り出されるけどボランティア気分だよ。本気で踊ろうとは思わんよ。今じゃ。」 ぼくはおじさんの答えを無視して
「踊り踊るなら、ちょいと東京音頭、よいよい」 踊りながら出窓に駆け寄ると窓枠に腰掛けて、そとへ身を乗り出して、やる気のなさそうなおじさんを振り辺った。
おじさんはぼくに体当たりして突き飛ばすと後ろからしがみつこうとした。
「ちょいと、飛び降り音頭、よいよい」 ぼくはさっと身を交わしてソファーに戻り大声で笑った。
「やーまたおじさんをからかったな。驚かさんでくれ。『まったく、マキリにあっちゃ冗談にでも死んでなんかいられん』マキリの前ではそういうことはめった口に出してはいけないね。まともに受け取って真顔になるからね。これからという青年の前や自分が生きている間はめったに口にしてはいけない言葉だね。サヴァン症候群の青年にまた一本とられた。俺を試したな。アハハ」 ぼくから手を離してぽんぽんとはたいた。
ぼくは別におじさんを驚かそうとか試そうとしたのではありません。
今年のお盆休みのときここへきてアルミ格子の出窓から覗いた時、めずらしい日照り雨がニコライ堂を横切って行ったのをもう一度見て確認しておきたかったのです。
日傘の婦人が雨の中、自分の影をそのまま飼い犬のようにつれて歩いてふっとぼくを振り仰いだ。ぼくはその知らない人に手を振った。ポプラ並木の葉裏も新築ビルのガラス窓とぼくに向けて一斉に振り返ったような気がした。
今が過去になって行く瞬間に立ち会ったみたいだった。
今日はそれがうそのように曇って灰色の単色で、枝は凍ったようにとげとげしく空を指し、人っ子、一人歩いていなかった。
気が付くとおじさんはいつの間にか一人芝居みたいになって
「晩年は俺、金を払って他人に看病してもらおうと思うんだ。ウンコまでとって面倒見てくれる人なんか居ないもんね。シェーン」 犬に当て付けがましく言ったところでした。
「娘さんの麻貴ちゃんが居るじゃない?」 誰かが応えた。
「あ、麻貴。それは忘れてた。今アンデスの天文台で宇宙人を探してる」 御茶ノ水のおじさんはお酒を忘れて、今日始めて笑った。
ぼくがここに来るたびおじさんは変な事ばかりしている。
熱帯魚の水槽に釣り糸をたれていたり、シェーンをバリカンで刈り上げていたり。おかげでシェットランド犬シェーンは間抜けなライオンみたいになった。
おじさんのやることでよく分からないところは、見ても見えない振りをしてやり過ごした。
ぼくは黙っておじさんのへんてこりんな話とか、やっている事を一旦全部飲み込んでしまう。
真正面から笑ったり質問したりないで、そっぽを向いておじさんの話の中身をだんだん忘れていくほうが、その場が長持ちするような気がする。
今日のおじさんの話も、そっぽをむいたまま聞いていたが、ぼくなりに繋げて整理すると
「屋上に鳥を放し飼いしたな。という結論になる。お話の終わりごろでぼくを驚かすつもりだな!」 と直感した。その証拠におじさんは
「そんな屋上の風景に長居しすぎたとか。その鳥! 本当は飛べなくて風に吹き飛ばされてばかりいるんだとか。これからは共同生活をして飛び方を覚えるんだとか。だが卵は星と同じで、いつでも生まれているんだとか」 と何回も言ったからです。
「間違いない! おじさんの星空では星がいくつもうまれている、丸見えの屋上では、もうコーチンを放し飼いにして卵をいくつも産ませた。共同生活では卵をいくつも産ませなくては生活が長持ちしない。自給自足、つまり産むことを中心に話を進めているのだ。その勢いは並大抵ではなかった!」 という事になる。
「コケーッ、コッコ、コッ」 お酒で頭がふらふらするおじさんの上をいつも、コーチンがバタバタ飛んで肩に泊まりに来る。
おじさんが隠し事をもっと奥に隠すように、奥さんに知らん顔で湯飲み茶碗に注いだビールを飲む姿に笑えてしまった。
ぼくには丸分かりなのに、奥さんはわざと知らん振りをしているのだろうか。おじさんは
「こりゃーだめだ。マキリはこちらの話をぜんぜん聞いていない。全部無駄ばなしになってしまった! せっかく皆の老後の事を本気で考えているのに」 と残念そうにぼくを見つめて、もう一口ぐいと飲んだ。
そして、やっぱりぼくを屋上へ連れて行った。
ぼくは、おじさんの話をこんなによく聞いて、無人の屋上が卵だけでなく鳥という命まで宿したのも見抜いていたのに。
「おじさんは自分の言いたいことだけを分からせようとするだけで、本当のぼくの事を聞いてくれない」
と思った。
屋上へ出ると居た! 居た。アヒルが三羽ガアガア鳴いて出迎えてくれた。
「コーチンのつもりがアヒルとは?」 ぼくが言うと
「あれ! あれは大失敗で、誰にも言わなかった。コーチンの事。どうして君は知っているの。コーチンは二百十日の嵐で吹き飛ばされ行方不明のままさ! その点アヒルは重くて飛べないから一番屋上向きの飼い鳥なのさ」 打ち明けながら照れくさそうに植え込みの中から大きなアヒルの卵を三つ拾い上げ
「触ってごらんよ。まだあったかいよ。老後は若かった頃の仲間同士で鶏とかアヒルを放し飼いして共同生活しながら、のんびり映画製作でもしたいもんだね。アヒルはちょっと同居するには喧しすぎるかな」 そして、そこにはいない映画のスタッフに言った。
「音響係の菊池君。なんていうかなー。同時録音のときアヒルの鳴き声がいつもしていたら邪魔で絞め殺されるかもねー」
「・・」
「それにしてもいやなことばかり続くねえ。その同居予定の平野監督は昨日、自宅で火事を出して今は集中治療室で面会謝絶だし。監督が火事を出したんじゃ。若い頃から細々続いてきた映画製作の徒党もこれで解散だ。浜松の宮口あたりをアジトにして第二次ヴァン映画科学研究所を計画してたのに。火事じゃね。
やる気なくなるよ。皆バラバラになって俺達これからどうすりゃいいの。浜松のおれの親父も、もう長いこと無い。マキリの父さんだって浜松の母さんが死にそうなんだ。博打打ちの弟、繁も二日に一回の透析で両足を何時切断されるか分からない。俺だって、転地療法とか女房にだまされてアルコール依存症の施設に閉じ込められそうだし。俺たち一体これから、どうすりゃ良いの?」 おじさんはぼくに話しかけるのをあきらめ他の誰かに聞いた。
アヒルは自分の体が重すぎるのか、人間に興味を失ったのか立ち止まって目を瞑って眠った振りをしている。
「産みたての卵を、三つも盗まれたのに平気で眠ってしまうなんて、なんてのんきな性格だろう」 屋上から4階のおじさんのベッドルーム兼応接間に戻るとテレビには、星が生まれるところや消えるところが写っていた。
このビデオを見て、おじさんが屋上で鳥を育てたりキュウリを植えたりする気になったのがすっきり分かった。
それと麻貴ちゃんが、アンデスで円盤や宇宙人が見つかったかも気になっていたのだ。やはり親子だ。
横にはエメラルド・ブルーに照明された水槽があった。
吹き上がる泡粒に押された熱帯魚の橙色のコリドラスは、おじさんが屋上に行くたびに増えていった。

12・20  

ぼくは花川戸に着くと、ベッドから顔を挙げお年玉の袋を差し出したババに
「ただいま」 そっけなく言って、押入れ金庫のオルゴールへ直行した。
夏休みからわざと置き忘れておいた、お年玉より大事な宝物が待っている。
作り方は簡単ではない。まず世界大百科事典のページをぱらぱらと嗅ぐように見ながら、ドッグ・イヤーに舌を当てて濡らす。それを天日に干して、カリカリにかわかす。
乾くまでの休み時間に、洋バサミと、大中小のお皿、鉛筆を使って色紙をドーナツ型にくりぬく。
使用ずみのてんぷら油に、大中小に切り分けた色紙を、草木染めをするように箸を使って何度も丁寧に浸す。
百科事典のページごとに大中小のドーナツ型色紙を漬物のようにはさみこむ。
チキンとか茄子とか鯵のエキスがドーナツ型色紙に良くなじんだところで、百科事典から取り出してもう一度日に干す。(今度は休み時間はなし。もんじゃ焼きやカルメ焼きのように急に出来上がるので目が離せない。ドーナツ型の色紙の仕上げは干し芋ぐらいの乾き方がちょうど良い。
色彩の温度は、日向から日陰に移ったように下がり、華やかさが何処かへ飛んでしまう。
それをオルゴールの闇に密閉してしまえば出来上がりだった。
ぼくはオルゴールの暗闇に近づくとどきどきした。
振える手でドーナツ型の色紙を光の中に取り出し、形が崩れていないので安心した。
葉巻のように匂いを嗅いでみた。半年前作ったときと同じ桜海老のかき揚げの匂いがそのままだ。
格子戸から覗くように、五本指をかざしその隙間からも覗いて見た。ドーナツ型の色紙は指と指の隙間で、四等分されていた。
それが風を受けた鯉のぼりのように、下に向けて身体をくねらせたようだ。
手を揺すると、四匹の鯉のぼりはゆらゆらと目の前を泳ぎ始めた。手のひらの左右の波動は風のある空をかきまぜて、鯉の目が金色に光った。
鯉の口からも、金箔の泡が立ち、光って指の間をすり抜け空へ上っていく。
ぼくは、太陽に向けて、手のひらだけをかざして激しく揺すってみた。
手のひらが向いたところにあるものは一度くだけ散り。
見えなくなった後、おびただしい数の光波となって網膜を襲ってきた。
その勢いは歳月を掛けて育った根っことか、蔓のように、しぶとくぼくの目を覆っていった。
そして蛸のように目の裏側から全身に吸い付くと、ぼくを内側から食べていった。食べられながら快く痛かった。
立とうと思わなくても蛸足のような根っこと蔓に支えられて立たされている。
「ぼくは牛の胃の中で溶けていく草と同じだ! 第一の胃から第二の胃へ溶けながら旅させてもらっている」 
ぼくという草は輪郭が見えないという不便さはもう無くなっていて、空や太陽のような大きな物に向けて頷き溶け込む運命のように伸びている。
大事なのは目がなくても数世紀先が見えている実感。無いものが見えると言ったらいいのだろうか。
マッチをする音が体の中でしたかと思うと、ミラーボールが三つ、頭の上で回りはじめた。
お互い照らしあっているのだが、中心が太陽のような、見つめることができない空洞だ。
ぼくが作ったドーナツ型の色紙がオルゴールから飛び出して、ミラーボールになって回り始めた。
オルゴールの音がしてきた。くらくら目眩がするほどあたりが輝いていた。太陽の印象が黒い斑点となってあちらこちらに残ってしまった。

気が付くと薄暮の底なしの空だった。うっかりしていると動物や人が吸い込まれてしまいそうだ。
それを突き刺す勢いで避雷針がデパートの屋上で起立していたが、どうしても届かない。吸い取り紙のような深い天だ。
アパートの一室から、毎日のコーランの祈りが聞こえてきた。背広姿のアラブ青年が今日も尋ねてきた。
しばらく中年の太ったおじさんの嬉しそうな声がしたが、すぐコーランの合唱になった。六畳に10人はいるだろう。
それが幾日か続くと、塔を備えたモスクが、ぼくの夜の夢に湧き出るようになった。
でも昼間、上野まで散歩をしてもその塔にはたどり着かない。
明け方ぼくの夢へお隣のコーランの合唱が忍び込んで、テレビとぼくが合作したモスクが出来上がって見えるまでに成長していたらしい。
弁天山の鐘が朝六時を告げるとカラスだけでなくスズメ、時にはオナガが大げさに鳴きながら庭を覗く。
アパートの屋根を、野良猫親子が伸びをしながら横切り。その猫に庭から犬が吠えかかり。
バイクの音がして新聞が来るころ、決まって、遠くからかすかな豆腐屋のラッパの音がしてくる。
きょうはそれを乱暴に打ち消すように救急車の音までしている。
今日も隅田公園で凍死者でも出たのだろうか。
不吉な合図でいつも浅草寺界隈は、お祭り騒ぎへ巻き込まれて行く。
ぼくはみんながまだ寝ているうちに起きだして、庭に出してある白いテーブルの冷え切った椅子に座った。
「この家も、引越しの後なくなるのかー」 誰にも気付かれないように、すばやくここが火事になるのを想像した。目に映ったままをはっきり目の裏に定着し、すぐに消してしまうのだ。そう無声映画のコマ落としのように。
夏の丸テーブル下にあった、蚊取り線香の煙が、記憶を大きく巻き挙げ、冬の焚き火の大きさになり、ドンド焼きになり、とうとう平野さん家の火事になり、平野さんが二階の窓からネガフィルムの丸いブリキ缶を投げ出しはじめ。コマ落としは早い。ぼくの家に飛び火して煙に包まれて燃え始めた。テレビの戦争ニュ―スも手伝って想像力が勢い付いてきた。
消防自動車が路地裏に入れないで、松屋を取り囲むように集まってきた。ヘリコプターも左旋回して10数機も来ている。
家族全員で二階のベッドのババを担ぎ下ろした。
そのときババの白髪がパッ、パ、パ、バクダット上空のように光った。
父と母は部屋に戻るとテレビ、たんす、ホース、縄、フィルム、映写機をリレーしていたが間に合わなくなって平野さんの真似をして、窓から投げ出し始めた。
そのうち家中に火が回り、一人で立っているのさえ難しくなって、二階の窓から母の跡を追って父が火達磨になって飛び降りた。
弟のゴリも妹のユカもまだ寝ているはずなのに。
一度も姿を見なかったのは、想像しなかったぼくが悪かったのか、まだ眠っていた二人がうっかりしていたのか良く分からない。
消防士が行方不明者を探して、小型のゴジラのように家を上下左右めった切りにしていた。
火が収まってからも、出動したからには、入口から出口まで伽藍洞にしてやるぞという勢いで壊した。
瓦礫が積みあがり消防士がその中へうずもれて見えなくなった。ぼくだけが何事もなく丸テーブルの前で助かってしまった。
オルゴールを抱きしめて「ぼー」 としていると、一緒に燃えたはずの東側の手すり越しにアパートの寅さんが、ひょっこり顔を出して
「マキリ。おはよう。コーヒー飲もうか」 知らん振りをして言った。
「一人に気付かれてしまった」 ぼくの目線が、物干し竿のハードルに引っ掛かって、寅さんに伝わっていかない。
だから寅さんも、ぼくに何か誤魔化されたと思っただろう。
40才の年の差は一瞬なくなって、寅さんは物干し竿に咲いた塩の花のように浮かび上がったが、凄い勢いで錆びて皺だらけになって消えてしまった。
その隙間に生暖かい朝風が吹き込んできた。
焼け跡の灰が平野さん家の方からまっすぐ飛んできて
「つーん」 と臭った。
御茶ノ水のおじさんが言っていた徒党が、穴倉で火事を囲んで酒を飲み、海賊のように自分勝手に手に入れた、スリルある獲物の自慢話をしていた。
ぼくの想像が終わって気付くと、父と母は寅さんが淹れたコーヒーを、何事も無かったように飲んでいた。
「私、寮の管理人になって就職したでしょ。だから生活保護は打ち切りになってしまったのよ。でもマキリの冬休みの期間にあわせて、休暇を取ったの」 寅さんは寮に管理人室があるのに、理由をつけては毎週花川戸のアパートに帰ってくるらしい。
これは引きこもりの始まりではないだろうか。
ぼくが御殿場へ帰った後、職場へは復帰出来ないのではないか、と思った。みんなは火事を見ていたかのように、立ち退きの後の生き方を探る虚ろな目をしていた。
唯一、たしかなのは、吸い取り紙のような青空だ。
家とアパートの境を見ると地境の木杭が打ってあった。最近測量が入ったらしい。10年前は隣の旅館と家の間は
「泥棒通り」 と言う路地裏になっていたそうだ。
借主が代わるたびにその路地が消えていき。
誰のものでもない「石蹴り遊び」のときのような飛び地となってしまったらしい。
公図を見ても番地すらない部分がある。そこは猫の寄り会い所にもなっていて、マタタビでも吸ったらしい、五、六匹が毎日ごろごろ寝そべって、日向ぼっこで無く日影ゴッコをしている。
不良で不健康なマルチチュート猫の情報交換のたまり場らしい。浅草小学校は13─4、松屋は3、ぼくの家は15─1。ぼくは今居る家をマーカーで塗りつぶした。
やはり北側の旅館との間に80センチの路地が、塗り残って江戸時代から受け継いでいる白い猫の額が浮かびあがってきた。
これが町会地図になると、空白などひとつも無くこれでもかと塗り重なって、お店の宣伝がにぎやかに入って、東武線が鉄橋を渡る音や、三社祭の物悲しい子守唄のような笛の音や、羽子板市、三本締めの威勢の良い掛け声さえ聞こえそうだ。
靴屋さんの名前やお菓子屋さん、関根精肉、原草履、花川戸旅館、藤井漆喰。
ここに住んでいる頑固で多趣味な人々をすぐ思い出せる。
だから町会地図では80センチの猫の額では立小便、寝泊り禁止、焚き火などや、たばこのポイ捨ても厳禁だ。
知らないで、その「泥棒通り」 にうっかり入ってしまった闖入者も、じぶんが仕掛けたわなに落ちたような気がするだろう。
暖簾の向こう、路地裏の植木の裏側、お花の先生の教室や旅館から、いくつもの目が覗いている。
うっかりそこで立小便をしようとしたおじさんは美容師さんから熱湯をかけられた。
どんな泥棒の名人でも、すぐ御用になってしまったそうだ。
旅館の小学生の玉ちゃんが地面に石墨をぬって石蹴りをしている。その丸の数も、ぼくが星野商店にドクターペッパーを買いに行って買い物袋を何回電信柱にぶつけたのかも、町会には手にとるように見えているらしい。
それがテレビのデジタル、モニターに映って見えているわけでなく、脳内アナログのひだひだの路地裏でひた隠しされているものが露見しているのだから神秘だ。
さっきの火事の想像の中身も実のところ寅さん以外、町会にも見られてしまったかもしれない。
誰かの想像力が外に溢れ出すなんて、自分が見る夢を、他人も見ているみたいなものだ。

夜、押入れで眠っていると、今年の夏休みのことがコマ切れのように浮かび上がってきた。
毎朝涼しいうちに母と隅田公園に散歩に行った。
待乳山聖天の向かいに、使われていない電柱が立っていた。
その電柱にいつからか葛の蔓が巻きついて緑色に包まれて空に突き出していた。
「もうじき花が咲くね」 と母は楽しみにしていたが、次の朝は根元が切断されて枯れていた。
葉のミーラが落ち重なって、やせ細った蔓の隙間からコンクリートの柱がむき出しになった。
誰が何のためにこんな事をしたのか分からない。
真一文字の切り口は鮮やかだ。
ホームレスが恐る恐るいたずらしたのでなく、斧などを使って一気に処分した切り口だ。公園管理者が会議の結果、決断し。切断したのだ。
「100メートルほど吾妻橋よりに本物のくず棚があるので、そちらを堪能して下さい。都は、こちらの葛は雑草とみとめ、ほんものの景観を、損なうものである」 と英断したらしい。
それはそれで、公園中の電気がこの電柱を逆流して地下へ枝分かれして、公園全体の電灯にいきわたっている。
公園を見渡しても電線が無いことを来園者に、気付いて感心してもらえるかもしれない。と期待も込めたのだろうか。
青かった葉っぱは触手を天に向けて思い切り伸ばしたカタツムリの目を切ったようでかわいそうだ。
取り残された根っこは今からも芽を出そうとするだろう。
ぼくは息を詰めて枯れ葉をまたいだ。
「切っちゃったのね。もうすぐ花が咲きそうだったのに」 母が言った。
家に帰って、鉢の植木に水をやり水槽に餌を投げ込んだ。ドジョウが水槽の底からボウフラのように水面に浮かんできた。
でも見慣れた金魚が見当たらない。
遊び道具のつもりで入れてやったビーカーに緑色のミズゴケが生え、白い繭のようなものが中に浮かんでいる。
取り出してみると、金魚は死んでから数日たったらしくカビが身体を白く覆っていた。
ぼくはそれをぶどう鉢の根っこに埋めた。ぼくは、うっかりしていた。金魚はバック泳ぎが出来ないのだろうか。
ビーカーのガラス面が透明で自分が袋小路に嵌ったことに気付かず前進を続けてしまったのだ。
ひょっとするとハエがガラス戸に何度もぶつかって行くようにビーカーの底に体当たりして力尽きたのかもしれない。
犬のコロが死んだときも塀の穴から隣のアパートとの隙間に嵌まってしまいバック出来ずに前進し二階からアスファルトに飛び降りて頭の骨をおって自殺みたいに死んでしまった。
ドジョウとぼくはこんなに近くで見詰め合っているのに、ぼくが魚に近寄ってきてほしい時にも、目障りのときにも水槽をそっと叩いてみるだけだ。
ドジョウのほうでも、水温が上がりすぎたときや酸欠で呼吸困難のときなどあるだろう。
でも今のところ水槽の中から手紙のようなアワブクも無い。お互い餌を介して細々みつめあって生きている。
上手に住み分けているつもりだったが。ぼくのうっかりが、金魚を死なせてしまったと思うと悲しくなった。
ガラス面を横に走る水面とその下の汗をかいたような湿ったところがドジョウと人間の境目のような気がした。
空中ではなんでもないビーカーでも水面の境界をめくって挿入すると、予想もしない金魚への拷問道具へと化けてしうわけだ。
御茶ノ水のおじさんの家もぼくの家も今、空気のビーカーの中だ。
一回別れてみないと本当に会うときの喜びがわからない、と言う歌もあるが、そんな実験をしている暇は無い。
中でユーターンできるほど大きなビーカーが必要だ。
池袋の水族館は大掛かりで可能性が高い。
ビルの30階に海が引っ越してきていた。海水は、エレベーターで来たのだろうか。
サメが人間を無視して頭上を旋回していた。
マグロの群れは感電しているように突進して来るが群れが大きな円を描いて水槽にぶつかるようなのは居ない。
動物園の人気者のように愛嬌を振りまいている魚など一匹もいない。
サメの群れに、人間が足でも滑らせて落ちてしまったら、金魚のお返しに、サメは濃厚なあいさつを送ってくるだろう。
でもその広い水槽からなら、時間と鮫と感電物体のマグロだけやり過ごせばユーターンして復活して帰って来られるような気がした。
金魚にはひどい拷問をしたものだ。押入れの中でぼくは眠くなるのをこらえていた。

12・21  

マキリへ
前略。
君の父さんはついに切れてしまって
「家族解散」 とか言って電話をよこしました。
そのすぐあと、御茶ノ水のおじさんは自分で車に乗った迄は覚えていますが、楽しい家族温泉旅行のつもりが、だんだんおかしくなったのです。
娘の麻貴と妻の容子が理由をつけて帰ってしまうと突然海の見える横須賀の療養施設に、シェーンと一緒に入れられてしまい鍵をかけられてしまいました。
どういう薬を配合されたのか。さっきまで自分が誰なのかも分かりませんでした。
夜は施設ごと空を飛ぶし、飛んでいるはずの施設の非常口から君の父さんや母さんや平野さんなどの50人ぐらいの友人が訪ねて来て朝までかくれんぼで部屋の隙間に隠れているのです。
そして鬼のぼくには誰も一言も声をかけず、黙って自分が隠れる穴掘りのような仕事をし続けるのです。
明け方になってやっと自分が誰なのかここが海のそばだと少し分かりました。
足元で可愛がっているシェーンが胆汁をたくさん吐いて死んでいました。それでわれに返ったのでしょうね。
この気持ち自閉症のマキリになら分かってもらえると思って花川戸宛に手紙を書いています。
施設ではぼくの頭の体積や、口に入る水の量や、髪の毛の波の形を採集されました。ぼくはてっきり閉じ込められたと思いましたが、
よく見るとこの施設は鍵がありません。
出入り口に大きな鏡があって、逃げ出そうとする患者の自分を、看守の自分が監視する仕掛けになっているのが分かりました。
かといって開けっ放しでもないのです。緩やかなゴムの肌のような鍵がぼくの精神にかかっているようです。
それは麻薬かもしれません。LSD療法を施された可能性だってあるのです。
夕べもちょっと施設ごと空を飛んで、御茶ノ水に帰ってみました。ポプラは葉を落とし、そっけない姿を街路灯が寒そうに照らしていました。
明け方、施設に戻ってみると、窓に裏山が崩れ込んできていて、ガラスは割れ、床が水浸しになっている。タオルを何枚もかけてみるのだが拭い去るには間に合わない土砂の量になっているのです。
「看護師は有り余るほどいて、居ながらにして、片付けさせる命令も出来る。とっても自由だが、それをするには監視する自分を超えるような固い意思が必要なのです」 出口無しの堂々巡りの様をマキリに知らせたくて手紙を書いているのです。
一瞬時間が止まったので
「せいのお!」 とばかりに逃げだしてしまったような肉体の現在。担ぎ持って過去に戻っても回復しない現在。
おじさんは今レコードの逆回転が終わって、出発点に戻るのを待っているところなのです。未来にある過去に向かっているのが実感です。
施設の小遣いさんや先生に告白してしまえばそれなりの病名がつき終わりだが、その前に君にどうしても知らせておきたかった。
おじさんは力ずくでも早くレコードを逆回転して、LPの針を落したときの始まりに帰りたい。
そうしないと懐かしい共同生活の夢は何時までも持たないと思う。本当に自分とシェーンに申し訳ないことをしてしまった。
「針を落としたところまで戻ればシェーンだって生き返るかもしれない」 とあり得ないことも考えて泣いているのです。
床が土砂に埋まってしまった施設から覗くと、アルコール依存症治療所という看板がある。
その向こうは海。水平線があるべきところが、細長い岬と重なってしまって水平線が病んでいる。
おじさんは校庭の小遣いさんから見つからないようにシェーンの死骸を見ないように山のほうに眼を背けた。
「シェーンは今夜にでも御茶ノ水まで担いで行って弔ってこよう」 すると裏門のウバメガシに、鳥が止まった。
ポプラの青々とした小枝を羽の変わりに背負って身を隠したつもりで止まっているのが見えた。ちょっとはたくと、飛べないのか腹を上にして折り紙みたいに倒れた。
「なんて弱い鳥だろう、飛ぶつもりがあるのだろうか」 擬態の羽をつまんで、ポプラの枝の様子をみんなに見せびらかしてから、空に放り上げるのだが、足元に落ちてしまう。
「飛べないのだ。ポプラの擬態に力を入れすぎて、装飾過多で、飛べなくなるまで進化してしまった」 鳥は人の言葉で言った。
風に乗ったときだけ、吹き飛ばされる勢いで、やっと空を飛ぶように見えるらしい。
おじさんが木に登って、鳥を高いところに止まらせると、突風が吹いて、大木の後ろに吹き飛ばされた。
しばらくすると、川の向こう側の崖っ淵の柵に止まって、助かったらしい。
おじさんはこのアヒルとコーチンの合いの子のような鳥の事についてもマキリにだけは知らせておきたかったのです。
その夜おじさんは誰にも気付かれず御茶ノ水ビル屋上のガチョウの丘に大きく深い墓を掘ってシェーンを無事密葬しましたので、泣いたり心配たりしないでください。     
隔離病棟にて御茶ノ水のおじさんより

ぼくはそのシェーンが死んだ知らせの手紙を誰にも見せないで、オルゴールにしまった。
「死んだのも本当か嘘かもわからないような幻覚ばかりの手紙を、なぜ御茶ノ水のおじさんが一所懸命書いたのか分からない。ぼくから返事ももらえそうもない手紙を」 そのことも、仕舞っておくひとつの理由だった。
この前おじさんが
「俺達これから、どうすりゃいいの」 と父と母に言ったのを思い出した。そのとき三人ともどうすりゃいいのか答えなかった。
「成るように、なっていくしか、ないじゃないか」 とぼくは思っていた。
ぼくだって、こうしようああしようと思って、そうなったことは一度もない。ああなりそうだこうなりそうだと思って、年を取るのと訳が違うような気がします。
さっきから気がついていたシェーンの死んだ事を、言葉では
「今、気が付いた」 とおどけて云うのです。
言葉は永遠に実際いま起きていることに追いつけません。あるいは追い越してしまいます。
日記に、今しています。しようと思います。と書けないで、いつでも、しました。となってしまうのに似ています。
ぼくにはそこまで分かったのに御茶ノ水のおじさんの手紙には差出人の住所がありません。
あったとしてもぼくがおじさんに手紙を書かないことを、おじさんがあらかじめ知っているとしか思えません。
ではおじさんはなぜ手紙を書いたのか。
出口無しの堂々巡りが始まりました。手紙は四角い紙に、手で書いたインクの紙魚です。
普通の人は返事を書いたあと貰った手紙は、大事に仕舞い込んで忘れてしまいますが、ぼくには返事を書くところが欠落しています。しかしオルゴールの中の宝物と同じ扱いはできるのです。
ぼくが死んで温暖化しても、それは熱湯の海をどこまでも浮かんでいくでしょう。

12.22  

「皆で一度にダーと出てしまえばマキリも釣られて出てくるよ!」 新潟から帰っている弟のゴリが言った。
今日は家族で動物園にいくことになっているらしい。
寝ているババは留守番だけど。ぼくは動物園で象の前もパンダもライオンも素通りした。西郷さんの銅像ばかり気になった。ポテトチップスをゆっくり食べる行きつけのレストランの特等席があるからだ。座席は掘り炬燵式になっていて、靴を脱いでくつろげるし、お客さんは大体テラスで銅像を見ながら話すので店の中はいつも空っぽだ。
店員に顔を覚えられたのか、少々騒いでも許してくれる。白状すると幼い頃から動物は苦手だった。
小犬のコロを抱かされた時も、胸からそっと足下に置くと駆け出して逃げた。犬でこうだから、猫を胸の中へ入れて駆け引きしながら抱いている事などとうてい出来ない。
目が合っただけで電流が走り、ぼくも猫も悲鳴を上げて逃げ出してしまう。
だからこれまで動物園では猫科の動物とはある距離を保つことにして、間に鉄棒が何本立ちはだかっていても、お互いにゆずれる目に見えないボーダーラインを足早にやり過ごして歩く。
今日も檻に近づき過ぎないようにした。
でも犀の牧場ではしばらく立ち止まってしまった。
犀は浮世絵に良く見かけるグラデーションの夕空を背に、重心が低い巨大な牛という風体で堂々とこちらを向いていた。
角には人を寄せつけない何かがあったが鉄の檻に入れるほどの怖さはない。
不忍池を草原のつもりで見渡す姿には、草いきれさえ漂っていた。
「眼の中の不忍池が、ふるさとのサバンナのブッシュと同じように見えていますように」 ぼくは息を止めて、俯きかげんな犀の小粒な目を、手で掬い上げてやりたくなった。
飼育係がバケツを叩く音に反応して、突然くるっと大きなお尻をこちらに向けて、ゆさゆさ餌場へ走って行った。ゴリが
「犀って犬よりかわいいね。このアフリカのうぶさが癖になりそう。もう一度出てこないかなー」 ぼくは同意する代わりに、犀のすなおさを真似て、隙を見て狙っていたゴリのむっちりしたお腹に抱きついて
「アハハ」 と笑った。「さあ西郷どんの所へ行こうか」 弟のゴリが言った。
夕方寅さんが、淹れたてのコーヒーと米沢牛と根菜類のザルを抱えて勝手口から入ってきた。ぼくは甚平さんをなびかせて
「東京音頭」 のテープを、首を振りながら聞いていた。
手足が動き立ち上がり、気が付くと踊っていた。 
「もう、あと一日だけになったわね」 寅さんの声がした。
茶碗やコップが鳴る音で台所が騒がしくなった。
「五日間の冬休みなんて、あっという間だったわ」 テレビのそばの、ぼく中心のどんより暗い声色を、台所のきらきら輝く音色が包み込んできた。
「前から聞いてみたかったんだけど、マキリと言う名前、誰がどうして付けたの?」 また寅さんのしゃがれた声。
「城之内さんと足立さんが付けてくれたのよ!」 妹のユカの甲高い響く声。
城之内さんが交通事故で亡くなってもう七年になる。
四十九日のとき御茶ノ水のおじさんや父さんの仲間が二ノ宮海岸に集まって、事故のとき履いていたブーツと着ていた血が付いた下着を焼いて、その灰を海に流すお別れ会をした。
海岸で大人がみんな大声を出してモヤイ像のように泣いた。
そのときぼくが
「一月十三日。金。よ。お。び」 と、叫んだ。
別れの悲しみで凍り付いて止まってしまった夕日が、ぼくの秒読みでモヤイ像の頭の上で燃え始め。
「あのマキリの合図で、時が『ゴー』 と、再生して動き始めた」
と金井おじさんは、そのときの感想を言い。
一年たったころ城之内さんを追悼して歌・句・詩シネマ
「時が乱吹く」 という金井おじさんの映画が生まれた。
ぼくがまだ花川戸に住んでいる頃だった。
それから御茶ノ水のおじさんが言っていた、若い頃の仲間、映画製作の徒党、共同生活候補者たち(ヴァン映画科学研究所)の手によって
劇映画「出張」と記録映画「魂の風景―大野一雄の世界」 がたて続けに出来上がった。
「出張」 は中野武蔵野ホールで公開された。
「城之内さんの自主製作映画が浅草木馬亭の追悼上映会を皮切りに、下北沢、京都、ニューヨーク等でも公開された」 と父は言っていた。
その城之内さんが三〇年前、新宿の花園神社そばのゴールデン街で「マキリ」 と言う呼び名を見つけてくれたのだ。
それを「真切」 という漢字にしたのが誰だったか、何度も聞いていたがもう思い出せない。
「そういう訳で、マキリはアイヌの女性が身に着けた護身用の短刀のことなの!」 ぼくの秘密に詳しいユカの声がまたした。
あとは、まな板をたたく包丁の音だけになった。
なべの準備が終わり、年に三日だけ新潟と松本から帰ってくるゴリとユカが、真ん中をあけて座って全員が
「さあて、始めよか!」 と言うのに合わせて、ぼくは少し違うんじゃないかと思った。
雨のしょぼ降る夜に、ぼくの旅立ちをこんなふうに祝うなんて! 
「こんなふうに祝われるままに、良い子のふりをしているなんて! ぼくには出来ない。時に流されるまま最後の豪華な晩御飯を食べながら、家も家族もなくなるなんて!」
「マキリ! 泣いていい?」 ぼくは大声で聞いた。五人はうろたえた。
「いいよ! でもなんで! 今なの?」 ゴリとユカが、困たように聞き返したが、ぼくは脇にあった座布団に顔をうずめ、シェーンも思い出して本当に泣き始めた。
「あらっ。マキリは、泣かない子だ、とばかり思っていたのに」 寅さんが驚いて言った。
外では雨だれの音がアフリカの太鼓のように、水と風次第というランダムでありながら規則もありそうな波のようなリズムを続けていた。
入ってくるその音を、父が勝手口のドアの外に締め出した。
それでぼくの泣き声が、生け捕りされたように部屋中に大きく響いた。
「そのうち、米沢牛のいい匂いにつられて食べにくるかもしれないわ」 皆は席の真ん中を一杯空けてぼくを待った。ぼくは嘘のような家族団らんに、ますます食べたくなくなった。
「もう一度泣いていい?」
「今日はもう一日が全部終わったことにしよう」 押入れの上段に陣取って、日めくりの今日の日付を、思い切ってめくって、口に入れてぐちゃぐちゃに噛んだ。その塊を天井に投げつけ、明日の日づけの前で声を出さずゆっくり泣いた。
「これがお別れ会だってことに気が付いて、胸がいっぱいで、夕食が出来なくなったようだわ」 母は寅さんにすまなさそうにつぶやいた。
そのとき「ピー」 と終電が、大川の鉄橋を渡って終点の東武浅草駅に入って来た。
「もうこんな時間なの。私って、気付かぬうちにマキリさんに嫌われるような事しているのかしら」

12・23 

台所の暗闇に、ぼくの背丈より大きな冷蔵庫があった。父は
「こんなに大きな冷蔵庫が本当に役立っていたことがあったのか信じられない」
というように冷蔵庫の抜け殻のように座っていた。
それは横浜のおばさんに頼んで買ってもらったのだが、アメリカのGE社製のやたらと電気ばかり食ってしまう代物だった。
今ではババの部屋にある一回り小さい冷蔵庫で全部間に合ってしまうので、GEは粗大ごみとして出してしまった。
父は座禅みたいな形で座っているが、ハルシオンを飲みながらの修行なんて聞いたことが無い。
父も僕とおなじ内容の手紙を御茶ノ水のおじさんから貰ったのだろうか。
背中の白壁にはぼくが小学生の頃クレヨンで書いた落書きのうえに、禁煙とか禁酒とか、禁の付く字が一面に張ってあり。
「酒を飲んでトイレに小便を散らかして申し訳ありません。これからは二度としません。今回だけ許してください」 など父の字で、母宛謝罪文が賞状のようにたくさん張り出してあった。
ぼくは瞑っている父の瞼を、親指と人差し指で開き目玉を剥き出しにしてみた。
黒目が在ったところは白内障の金目鯛のような、何も写さない虚ろな鏡が光っていた。
その目は引越し先も探さず、花川戸に拘って、何処にも行き場が見つからない。あるいは居場所がなくなっている黒目といったほうが良いのかもしれない。
隣の寅さんでさえ、ババの僅かな纏まったお金に、吸い付いてきているのに、父はそうならない。
寅さんは生活保護を取り消されたまま、ババのオムツ替えを口実に、家に入り浸っているといったほうが正しい。
おばあちゃんの下の取替えのたびに母と組んで、父を攻撃して謝罪文を書かせている。
父は堪忍袋の緒が切れたときに、寅さんに怒鳴って言った。ぼくにはいまだにその意味が分からない。
いつか分かる時が来るのだろうか。
「なんと言われようと、寅さんと違って俺は立派に住民税払っているんだ」 と言ったついでに
「『男女(おめ)えさん』 歌沢の師匠さんだと思っていたが、女の弟子がたくさん出入りしている。端唄が上手というでも無いのに女の弟子ばかり来る。ことに囲い者や後家さんたちがわざわざ遠方から来るというのを聞いて、変に思って、もしやと疑っていたら案の通りでした。つまり色と慾の二筋道で女が女を蕩して金を搾り取る。これだから油断がなりませんよ。」(半七老人の話) 追い詰められたネズミの父が、猫の寅さんを御用にかけたらしいのだが!
もちろん、ぼくはテレビアニメ「小さなバイキング・ビッケ」 なら繰り返し見るが、半七捕物帳など聞いたこともない。
第一、本になっているらしいので、ぼくの場合読むというよりドッグ・イヤーを舐めたくなってしまう性格なのだ。
父が言った内容も理解できない。その場の雰囲気だけ言うと、寅さんは一瞬何を言われたのか、口をぽかんと開けてだまって何かを誤魔化したような顔をして帰って行った。
寅さんは「わあー」 と顔を隠したいほどの深い恥ずかしさと恨みとして記憶に残してしまったらしい。
そういうことだったらぼくにもある。子供の頃真っ裸で吉原のお店に入ったことなどだ。
寅さんは職場復帰もせず生活保護を申し出ないのもその父の噛み傷に理由がありそうだ。
寅さんは最近奥さんをなくした犬仲間の猟犬のおじさんと、父を比べ、父を馬鹿呼ばわりして調理人のおじさんをほめる。
母も巻き込んでそんなことばかりやっている。
父は猟犬のおじさんが鉄砲で撃ってきた鴨をおいしそうに食べていたが、お芝居のつもりでふざけているのだろうか。何が起きているか、うすうす感づいているのだろうか。
引越し先に父を連れて行かない計画が進んでいるのに。
相談が父を抜いた三人で進んでいるのだったら、父は事件に巻き込まれるかも知れない。四対一では勝ち目が無い。
猟犬のおじさんが調理責任者、寅さんが接客責任者、母が出資者という役回りになっているらしいし。母は遺産の取り分を巡って早くも父を家庭裁判所に訴えている。
ユカも、引っ越し先予定地を、見学にも行かない父を見かねて
「おかあさん。猟犬のおじさんと再婚したら」 などと、父の前でわざと云っているような気もする。
父の居場所といったらまるでムーミントロールのモランみたいなものだ。
モランが座ったところは春が来るまでは凍ってしまう。
父の座っている冷蔵庫があった窪みはいつも凍ってばかりいた。
ユカは農学部出なのでついでに調理師免許をもらっているはずだ。母の出す店で精一杯働くつもりなのだろうか。
父は家庭裁判所に呼び出されてもお金の事では母と喧嘩しないだろう。
ぼくが20才になって御殿場に入所するまで45日間の記録を、きっと調停員に提出して、母の申し立てを軽くかわしてしまうに違いない。父は撤退とか脱出とか離婚とか何かしたいことがあるはずだ。
「父が母とだらだらと遺産の取り分で争っていたら、店を出す気になってしまった三人に何をされるか分からない。簀巻きにして隅田川に流されるかもしれない」 父は争いを避けるに決まっている。
春が来る前に故郷の浜松に帰ってしまう。浜松に帰るのが本当の目的なのだ。
やったことも無い飲食店で苦労したくないのだ。
相続税対策を考えに入れていなかった母は来年、法外な税金を納めるだろう。
不動産屋のおだてに乗って調理人の実力以上に大きな構えのお店を買うに違いない。
そして職人特別手当を出し。寅さんにも接客手当てを上乗せして給料を払い。店は始まるが、すぐに調理人から
「給料を上げなけりゃ、いつ出て行ってもいいのだぜ」 と脅されて、金を巻き上げられ。
職人はある日ぷいと店を出たまま姿をくらまして、懐かしい浅草などに舞い戻って住み込みの職人になるに違いない。
職人が居なくなって客も減り損ばかり膨らんでいく店を売って、小さなカレーライス屋を開くころにはババはもう死んでもう居ないだろう。
「大きな店でいい時死んでくれて有難かった。ババに惨めな心配をかけないですんだ!」 葬式に駆けつけた息子を、新潟まで追い返した後(それほど店の中が揉めているからなのだろう)締め切った戸口の奥で、わずかに残ったお金を囲んで、寅さんと向かいあって座り嘘っぽい涙で泣くだろう。
ユカは母の元を去り新宿で就職し。
働くのが苦手な寅さんと母が営むカレー屋さんも客も無く休みがちになり、ずっと休んでしまった挙句に、そこも売ってしまい。
今度は住むだけの六畳、三畳のバラックなどを買って、二人で住み始めるが寅さんは、相変わらず働かず。
生活保護を受けようともせず、母がアルバイトで稼いで来るアルバイトの給料に頼って生き抜くだろう。
これを水族館の魚の世界では
「蛸に吸い付かれた巾着鯛」 というのだそうだ。
ぼくは、その原発のそばの火葬場近く、山の中腹の掘っ立て小屋に毎年夏と冬になると帰省することになるだろう。
ぼくは六畳に寝、寅さんが三畳、母は風呂場で寝るのかもしれない。父は浜松の弟の繁さんと御母さんが死ぬまで、実家のあばら家に住むつもりだろう。
こうして元家族が集まれる場所はなくなり、ぼくへの毎月一度の面接日か、年に二度の総会の日が、唯一の家族団らんの集合場所になるに違いない。それも仕方ないことだろう。
元家族が御殿場で東京音頭を踊ることになりそうだ。母は預金を使い果たしたら生活保護を申請するといいだすだろうが、他人を保護していて本人が生活保護を受けられるのか、そこのところが、ぼくにはわからない。

それから、犬のゴンを連れて父と母、三人で隅田公園に散歩に出掛けた。
葛棚は冬を早くやり過ごそうとひっそりと枯れて固まっていた。
枝の間からは冬空が透けて見えた。
ぼくは成人したときから御殿場が住まいだと決めていたし、弟のゴリは新潟のうどん屋に住み込みで大学に通っているし、ユカは就職した。
一度、立ち退き後、御殿場に住むのはどうかと、父と母と寅さんが尋ねてきたことがあった。寅さんがなぜ来たのか今でも謎だが、父は不動産屋の案内で御殿場中の中古物件を見て回ったらしいが、住む実感がわかなかったそうだ。
車を買うときとは訳が違って住宅となると、移動でなく拠点をそこに置くことに戸惑ったそうだ。
それと職業の事を考えるとボランティアのカン拾いぐらいしか思い浮かばず。
きれいな別荘のような物件を前にしてその生活感の乏しさにただうろたえたそうだ。
「この辺は生活するところでなく空想して楽しむところだったのが分かった」 と父は寅さんと母に言っていた。
わざわざ御殿場のぼくの近所に引っ越してきても、毎日ぼくが作業に打ち込んでいる施設に酒でも飲んで来られても困る。
墨田公園の犬仲間の猟犬のおじさんが水門の土手の下でこちらを見て待っていた。
母は引き寄せられるように犬仲間に駆け寄ると
「私お店やることに決めたの。息子とも今の旦那ともこれでお別れの決心がついたから余計な心配はしないで板前として腕を振るうことだけ考えて。お金も誰にも分けないで商売につぎ込むわ」 というと何事も無かったように土手に引き返してきた。
犬仲間は最初からぼく達が三人組だったことを知らなかったように振り向きもせず公園を出ると馬道のほうへ消え去った。
父は御茶ノ水のおじさんが言っていた映画製作というよりも、その原作となるような、安上がりの詩のようなものを一人になって書きたいようです。
本当は郷里へ帰りたいだけかもしれませんが。
浅草の土地が売れた後どこへ引っ越すかまだ結論は聞いていませんが、父と母はお互い自分の親のところに行きます。
だから離婚します。今までが、ぼくが家の中心だったから、ぼくが居なくなったら両親は何の話題も無くなりばらばらになります。
ただ、20才になって、ぼくが御殿場で自立を目指して住もうと決めたときの寂しい気持ちを、今頃になってお互いに味わっていると思います。
みんなは、ぼくの真似をして家から巣立って、早く何かから自立したいのかもしれません。
それにぼくも場所にこだわるほうなので、住み慣れた浅草よりほかのところへ引っ越されても、どこへも帰りたくならないような気もします。
その後三人は、桜橋を渡りながら記念に10円銅貨を賽銭箱と思って大川へ投げ込み、そして思わず手を合わせた。
「あらマキリったら、うなぎ屋さんのおばさんの真似しているわ」 
「そうだったね、あのおばさん、観音様に向かって毎朝店を開ける前手を合わせていたね!隅田川で焼け死んだ犠牲者にね」 カモメがすぐ傍まで近づいて餌をねだった後、何も持っていないと分かってサーと風に乗って、言問橋の群れに向けて飛び去った。墨田公園の散歩も今日でおしまいだ。
吾妻橋の袂のお地蔵さんとうなぎ屋さんを通って向島の東岸をゆっくり駒形橋まで歩いて駒形橋西詰から雷門にむかった。
ぼくは21才になったし、父も母も60才になる。
「いつまでも甘えていられないな」 三人は同じことを思っていた。
花川戸に帰って郵便ポストを覗くと、家庭裁判所から、父宛の呼び出し状が着ていた。
父への親孝行が、この手紙を手渡すことになってしまったようだ。
父は受け取ると中味も確かめず、さあ新宿まで来る送迎バスまで送ろうと言って、車のエンジンをかけに、駐車場に降りてしまった。
ぼくは昨日書いた御茶ノ水のおじさんへの手紙とオルゴールにしまってあったドーナツ形の折り紙で作ったぼくの宝物を全部封筒につめて母と車に乗った。来た時と同じように御茶ノ水のおじさんの家に寄ったが、おじさんは留守で、おばさんと麻貴ちゃんもカルチャースクールで門が閉まっていた。
扉で口を開いている青銅のポストに、手紙を投げ込むと、父の運転する車に戻って、カバンを広げオルゴールを確かめた。父も運転席でさっきの手紙を確かめていた。御茶ノ水のおじさんあての手紙に次のように書いてあります。

返信。 御茶ノ水のおじさんへ マキリより  
突然ですが、おじさんさようなら。
おじさんが横須賀の湯治から御茶ノ水に帰ってきてもその時には、ぼくはもう浅草に居ません。
おじさんの予告通り、この手紙が届く頃、父も浜松へ帰ってしまい。母は茨城で、寅さんと猟犬の料理人と組んで、日本料理屋をしているでしょう。
ゴリは新潟で理科の先生。ユカは東京で、事務員をしています。
ぼくは帰ったら最後御殿場が、一生の住み家になります。
おじさんが仲間と一緒に鶏でも飼って徒党のためのアジトを作ってのんびり暮らしたければ、お酒の変わりに、温泉の薬師の湯をたくさん飲んで、まず体を直してください。
これからぼくの家族はバラバラです。御茶ノ水も花川戸も取り壊し中なのです。
何故かというと一度、すっからかんに失うことで、全体がどうなっているか。
家族に今度会う楽しみがどんなものか分かるからです。
おじさんだって同じでしょう。
追伸・胆汁をはいて悲しんでいたシェーンに折り紙で作ったドーナツ形のぼくの宝物を、全部この封筒につめて御茶ノ水のおじさんのポストに入れておきます。
シェーンならこの懐かしい臭いを知っているはずです。
おじさんは早く御茶ノ水に帰って来てぼくの宝物を、シェーンのお墓にお供えして下さい。
オルゴールは御殿場に持って帰ることにしました。明日はきっとぼくのかばんの中です。

「さて今は空っぽになったオルゴールに、これから何をしまっておこうか?」 新宿駅西口安田生命北側で待っている送迎バスに乗って、一人になってからゆっくり考えます。

(2009・9・10)

服喪のConte 変身の予感

      



秋の終わりの天気がよい日曜日、ユカは父さんに弁当を届けようと思った。
「父さんのマザーグース見てみない」 と弟のゴリに声をかけた。
「そんなもん居るはずないよ。いても見えっこないよ」 ゴリは答えた。
「弁当を届けながら、暇つぶしに、行ってみようよ」
「コスプレの魔女のばあさんにわざわざ会いにいくの? 歩行者天国の真ん中に、アヒルや鵞鳥に乗ったおばあさんなんかいないよ。それより鵞鳥って飛べたかなー」
「それ。それって大事よ。調べる気持ちが。歩行天で遊んでこようよ。お天気も良いし、ゲームばかりしていちゃあ、天気がもったいないよ」
ユカは弁当を包みながら、ゴリにけしかけた。
「大道芸なら見ても良いかな。ぶわあ、と火を吹く奴」 そんなわけで、地下鉄にのって新宿の6階建ての本屋さんに向かった。
東口で降りると
「きょうは、絶対なにもしないぞ」 と決めた人たちが突っ立って、北側斜め上の大型テレビ画面を、ナキウサギのように見ていた。右折して人ごみを掻き分けると歩行天が始まっている。
笛や太鼓のアンデス民謡では、観客のおじさんが足を自分の頭の上まで振り上げ、曲に遅れもせず本気で踊りまくっている。近くのダンス教室の先生にちがいない。
そしてそれが当たり前のように、その場になじんでしまっている。歩道にあがれば書店前の待ち合わせの一団が三々五々エスカレーターに吸い込まれていく。ユカとゴリも吸い込まれた。裏側に階段もあるのだが、行きはどうしても吸い込まれ率が高くなる。
「お店に入ってみようか。やめとこうかな」 と思った瞬間に、吸い込んでしまおうという仕組みである。
「1階と2階の中間あたりで『やられた!』もう入るっきゃない」 と、肝が決まってしまう。
エスカレーターから押し出され、その余禄で、だらだら20歩ほど行くと。左側のイヴェント・コーナーの赤毛氈上に、ライティングされた金ぴかの本が並んでいる。
一番目立つ壁の真ん中には裏地が青で、コールテン仕立て、赤いモーニング姿の猫が立っている。ベージュの帽子に、かかとを、踏み潰した靴をはいた猫の、自信に満ちた目。
首に挟んだバイオリンを、聞き耳を立てながら弾いている。
白いチョッキを、お臍の上あたりまでのぞかせ、その下には黄色い半ズボン。
「なんて、おしゃれなのら猫」 16才のゴリ。
「かんわ! ゆい」 19才のユカ。
真ん中左に、ガチョウに乗った赤と黒のとんがり帽子の、赤マントの魔女が本を読み読み、どこでもないところへ飛んでいく。どこでもない時間に向かって飛んでいる。
「マザーグースって、魔女なの」とゴリ。
「人攫いみたいなおばあさん。でもみんなおしゃれなのね。私負けそう」と、ユカ。
そのとき、コーナーの真ん中の穴倉から、蝶ネクタイの父さんが飛び出して、
「よく来た、よく来た、まあ座んなさい」 と椅子を出す。しばらくの間は客扱い。父はお客が居ない売り場でつくった
「テントウムシの自宅はお日様だ の歌」を二人に読み聞かせてくれた。


これは赤テントウムシの丸い家
丸い家からみた地球の
円盤飛び立つ基地が
ある草原のカラスノエンドウに
集まった子供達が
見つけたテントウムシは
死んだふりして地面に落ちる
それを手のひらにつまみあげた少年を
見つめている少女がはやしたてた
「目を覚まして飛んでいけお前のうちが火事だ」
テントウムシは目を覚まし天をさしてる少年の人差し指に登る
テントウムシは背伸びして羽を出し一直線に舞い上がる
テントウムシの円盤はお日様めがけて飛んでいく
子供達は見上げてた赤い羽を輝く丸い家が吸い込んだのを

こんな歌大人になっても覚えていておくれ

「父さん。どんな仕事してるかと思って、お弁当もって見に来たら、こんなことして遊んでたんだ」 ユカは言った。
「マザーグースってこの絵のことか。だまされた。やっぱり本物はいないよね!」 ゴリは言った。
「いないと思うところにいるんだよ。いると思うところに、いないんだよ。トンチンカンの変り者だからね」販売員の父さんとしてはそれがいないと困るのだ。
「お弁当、今日はないと思ってたら、今こうしてあるだろう」 父は猫を見て、足を止めた本当のお客さんのところへ行ってしまった。
「猫の足元を見てください」 とお客さんの足元の落し物に注意させたり。
「今、おうちが火事かもしれませんよ」 と自宅のコタツを、ちょっと心配させたり。
「あなたが通り越してしまわなけりゃ、私の話ももうちょっと 長引いたのに」
誰も居なくなった売り場で、一人で嘆いてみたり。
女学生は「女の子って、何で出来てる?」 と聞かれて、振り返りながら逃げ去った。
「心配ないよ。私の父さんだから」 ユカはつぶやいた。
そしてお昼ごろお店を出た。
父は非常階段のコーナーで、ジャック・ホーナーと並んでお昼を食べただろう。
私達は花園神社の境内で、同じおかずのお弁当を食べた。展示コーナーでは相棒のおじいさんが、
「売れた。売れた。マザーグースがまた売れた」 と叫んでるだろう。
外から、かすかにアンデスの笛の音が流れ込んで、猫の大きな目が雑踏の足を止めさせる。
「わたし、こんなのが、大好き」 また、新しい少女が集まってくる。
そんな日が三ヶ月も続いたある日、商会からひょうきんな父さん宛に手紙が来た。
マザーグース商人 Nさま  
せんだっては、マザーグースに会いに、わざわざ日本よりお越しいただき、ありがとう。
その節はロンドンではビッグ・マザーに本当に、お会いできましたか。心配です。あなたは
「本当に会えた」 などと、行商しながら、人に言いふらしてはいないでしょうね。心配です。健康を祈って差し上げた山羊足のブーツを売り場で見せびらかし、得意になって自慢していないでしょうね。ますます心配です。このたびも、商会は、オーストラリアにて、魔女探しに再挑戦していただきたく、ペアーでご招待したいと思います。  山羊足商会より

父は去年の、オックスフォード招待には仕事に役立つと思って行ったようだ。
オーストラリアはマザーグースの親戚の結婚式に招かれたようで、気が進まない。そのために家計が傾くと、いちばん困る。ユカとゴリのペアーではいけないか、山羊足商会に問い合わせたら、展示コーナーの相棒のおじいさんが旅行にも同行し、付き添い役をしてくれることと。
「ゴリもユカも商会の熱心なファンで、売り場にもよく弁当を運んでくれた」 商会に、推薦状まで書いてくれたらしい。それで商会から、しぶしぶながらも「ゴー」サインが出た。
「回りに、あまり迷惑をかけません」 おしゃれなのら猫の前で宣誓させられたけど。



父さんと同じ売り場のおじいさんが黄色いはでなシャツを着て現れた。
大きな旅行カバンで、プレハブの階段をガタンゴトン揺すって、あれは十二月のはじめだった。
「ユカちゃん、ゴリちゃん。冬休みの宿題は終わったかな」 と迎えに来た。
「お父さん、礼には及ばんよ。娘がケアンズからなかなか帰ってこないんで、この機会に会いに行くんじゃ。旅は道ずれ。世は情け。だから二人とはゴールド・コーストまでのご同行なんだが。お互い様の、よろしくってなもんだ。」 父は出勤時間で、3人に黙って手を振ると、いつものイヴェント・コーナーに向かって急いで出て行った。
三人はゴロゴロと、電車を乗り継いで、空港に着くころには縁日かお祭り気分になっていた。行きかう人は飛ぶようにというより、もう飛んでいて、頭は空っぽ。浮き立った体に、足は邪魔者のようにぶら下がっている感じだった。旅なれた賢い人はいすに座って出発時間が来るのをじっと待っている間に、ホールでの初顔合わせがはじまった。
「親子ずれ夫婦ずれが多い。姉弟組みは珍しい」 そうと思ったぐらいで、あとはうわのそらだった。みんなの自己紹介が終わったところで、山羊足商会の世話役という人が
「えへん。おほん。エー。このたびの旅はあー。隣の人の顔だけはよく覚えて迷子にならないようにエー。肝心なことは子供だからといって、大人の面倒を見るように。大人だからといって、子供から目を離されないように、むにゃむにゃ。私は独身で、皆さんのお供をするだけの世話役で、何の役にも立たなくなるのが、世話役の目標でして。特に今回の皆さんのお仲間には16才と19才の姉弟ずれがおります。そこの黄色いシャツのおじいさんが付き添い役を買って出てくれたおかげで特別許可が出た、珍しいケースです。なにぶん目配りのほどお願いしておきます。では、待っている飛行機に乗り込むことにしましょう」
そう言った時、黄色いシャツのおじいさんがさっとマイクを取って
「今紹介いただいた、私がこの子達の全責任を負わされた。付き添いの黄色いシャツです。支度をしながら、聞いてください。旅行の肝心は保険に入っているからといって、カバンを預けるときに、カナダ行きとか、オランダ行きに、おかないことです。そんなことをすると、お客さんがとても得して、ホテルがとても損をします。荷物が無事届かなかったお客様の部屋には花束とかご盛りの果物を置いて、お詫びのしるしにするからです。でも安心してください。ここが保険のいいところですが、荷物はカナダとかオランダを通過し、地球を約一回りして、次の日、確実にホテルに届きます。誰もこの私のような、旅なれたことはしないようご注意します。それから、ホテルのバス・ローブや、銀のスプーン、ナイフ、フォーク類を日本に持ち帰らないように、ってこと。旅行の肝心はそれに尽きますかな。これを守ってよい付き添いになろうと思っていますよ。この私は」
と云ったので一行はどっと笑った。
タイミングから言っても、緊張した一行を笑わせた力量は並大抵ではなかった。
移動を始めながら、ユカとゴリはこの前、父から聞いた、テントウムシの歌のどのへんに当たるのかなと思っていた。
「目を覚まして飛んでいけ のあたりかな。さあタラップを、上るよ」 ゴリはいった
「テントウムシは目をさまし天を差してる少年の人差し指に登る 飛行機は助走路に、ゆるゆる、動き始めたよ」 ユカがいった。
「テントウムシは 背伸びまでして羽を出し一直線に舞い上がる だったね、でもその先は、誰にもわからない」 二人は声をそろえてそう言った。
天と地と雲の上に、ぐんぐん上り、陸地がグラーと傾いて、覆いかぶさると、海の上に出た。それから先は、12時間と半年が瞬く間に過ぎてゆく。



コック・ピットの話がもれてきた。
「最悪だ。ニューギニア島あたりで、積乱雲に、突っ込んだ」 機長の声だ。 
きっと、トイレのスピカーだけ消し忘れてるんだ。
「機長、旋回して軌道修正しまひょか」 操縦士だ。ユカは手すりを両手で握り、ちぢこまった。
「駄目だ。闇夜で雲の中だ。正規航路を簡単にはずせない。もう10時間も飛び続けているのを忘れるな。突き進むしかない。キッチンのスチュワーデスを叩き起こして待機させろ」 公園のトイレで、スズメ蜂と出っくわしでもしたように慌ててしまい、足元でジーパンが絡みつき足ががくがく震え始めた。
「機長。さ、さっそく雷さん。右翼を直撃でっせ。」 機体が右に傾いたらしく、右足でふんばった。スピーカーは続けた。
「豆粒ほどの穴をおおげさに報告するな。それよりお客様を落ち着かせる方が先だ」 ユカは、落ち着こうと深呼吸した。
「ただ今雷の隙間を縫って飛んでいますー。と放送しときまひょか。宇宙船ボーイング号は隕石群に突入ー。にしときまっか」 だれにも聞こえないと思って言いたい放題になっている。吐き気さえしてきた。
「こんな会話が客席に伝わって、お客さまが恐怖に駆られて席を立たれるのが一番困る。そんな兆しがあれば旋回どころか日本に引き返す。」 ユカは素直に納得した。引き返されたくない一心で背筋をピンと伸ばして、機長の要望に添っていた。
「残念でおますなー。機長。引き返せなくなりました。左翼外側のエンジンにも落雷。燃料も少し漏れ始めたのと、ちゃいまっか・・」
「・・直進で正解だった。この巨体で旋回していたら燃料切れとエンジン停止で海の藻屑になるかもしれん」
「それじゃ、前進あるのみじゃござりませんかー。機長。ワーハッハ」 ユカもさっきから体全体が痙攣でガクガクしている。
「ばか笑いはそれくらいにして、500人の乗客のことを考えろ。黙って非常着水のイメージ・トレーニングでもしていろ。ほおら海面すれすれだ。我が翼よ、浮け。海中に頭から潜るんじゃない。水平。水平を保つんだ」 水平、水平と怒鳴られてユカはそんなとき機体が平衡を保てるかどうか、そっと手を離して人体実験でためしてみた。
「機長。驚かさんどいてんか。冗談も休み休みにしとくれやす。ほうら3000メートル級のエアー・ポケットに落ちたじゃないですか」 ユカの体が宙に浮いた。便器から水がふきあげ天井までぬれた。
「機首を一杯に上げろ。中央突破だ。これが一番の安全対策だ。雷など気にするな。その代わりニア・ミスだけは許さんぞ。レーダーから目を離すな」
ユカは床を転げながら、座席に戻ってきた。
「さっきから、いやに揺れるね」 ヘッドホンを聞いているゴリは言った。
「それどころじゃない。コック・ピットの話だと今、機体は最悪らしいよ」
ユカはそう言うと膝を抱きかかえ、びしょぬれのまま縮こまって俯いた。
外は豪雨で雷がピカピカ光っていた。
「皆様、シート・ベルトは外さないでください。窓のブラインドは下ろしてください。では助手と二人で、救命胴衣の付け方をやってみます、、。そうそう風船膨らめる要領で・・1・2・3・・あとはベテラン機長に、おまかせください」
「お客がパニックを起こさないよう、落ち着いた振りをしているだけなんだから」 ユカが皮肉っぽく言った時、天井から酸素吸入器がいっせいに落ちてきた。
スチュワーデスの笑顔が電灯の点滅と、急降下でゆがんでみえた。
座席に正座して観音経を唱える婦人の声が霞んでいった。スチュワーデスはいつの間にか消えて、ジャンボ機はインド洋と太平洋のさかいを迷走した。



大海原を越えた機長さんから、直接の機内放送だった。
「お待たせしました。ただ今、困難な気象から脱出しました。晴天の大陸がすぐに足元に見えてまいります。その前に最初に見えてきた島をご覧ください。オーストラリア入り口の、木曜島です。周りを鯨がゆったり泳いで皆様を出迎えていますが、見えますか。もしそれが見えるお客様。お一人様でもいらっしゃいましたら、スチュワーデスまで遠慮なく申し出てください。機長賞を差し上げます」 機長は何かを乗客に伝えたいが素直にそれが出来ないタイプなのだ。冗談を言う余裕が出来て、人にお礼を言いたいのだが、実際にこの航路がどんな困難で怖いことだったかは具体的に言えない。上機嫌だけの、的外れなアナウンスがすべてを物語っていた。それからしっかり地面につながっているバスに乗り換えた。
付き添いの黄色いシャツのおじいさんは
「いよいよ着きましたな。荷物はどうしました」
とも言わず、肝をつぶしたまま黙り込んでいた。バスは空港からの乗客の気持ちを、推し量るように静々と滑り出した。オペラ・ハウスで止まった。帆かけ船をかたどった、大理石の建物で、舞台では毎日進水式騒ぎをしている。でも出帆もなく揺れることもない安心のかたまりだ。ゴリとユカは、劇場のゆれない座席にふかぶかと座ったものだ。地球裏側の冬から出発して、半年も飛び越して今、真夏のシドニーだ。さっきのあれはSF映画のタイム・トンネルに入った時の特別のゆれだった。機中のことが恐怖映画の予告編のようにまた蠢き始めた。外へ出てみると大キノコが胞子を振りまきながら待っていた。
「親指トム」 ど思い出し、ゴリとユカが近づいてみると「なあんだ」
どの街角にもある、煙を吐いている灰皿だった。出勤時間。横を白ワイシャツにネクタイの人が
「東京の灰色紳士」とおなじように地下鉄入り口で、煙みたいに吐き出されたり吸い込まれたりしていた。ディズニーランドの小人やミッキーマウスのような歓迎はないようだ。
木曜島の見えなかった鯨。上陸のときスチュワーデスから振りかけてもらった防疫スプレイと、カンガルーのお祝いのワッペンでお終いだったのだ。でもあのスプレイは新郎新婦にまかれた花びらのようで照れ恥ずかしかった。



何もかも、東京と同じ風景とあきらめそうになったとき、ふたりは派手な看板を見つけた。どう考えてもこれは事故現場か殺害現場の、見取り図だ。犯人の証拠になりそうな足跡と言い、飛び散った原色の血糊と言い、下のほうには青ざめた似顔絵と、名前や日付まで入っている。
おびただしい数の鳥のレントゲン写真が看板を埋めている。
「あら、ここ焼鳥屋さんにしてはしゃれてるわ。民芸品屋さんみたいね。ちょっと、寄り道していかない」 
店員はふたりに似合いそうなエメラルド・ブルーの水着を取り出した。
「何も言ってないのに、どうして分かったのかしら。冬立ちだったので。確かに水着を忘れてきたのよ。このかわいらしい水着海に入ると魚に食べられてしまいそう」 ユカがそう呟くと「イエッ、イーエッ!」 店員は黒い顔の白目を、鏡のカケラのように光らせた。
「いえ、いえ! この水着はお菓子などではございません。本物のイルカの肌が刺繍で埋め込んであります。それがダイバー・スーツになっていて全身をすっぽり包みます。このMR・ディリ・ジェリーズが保障しますよ。このイルカ肌の水着で空を飛んだ人も居るそうな」 ラップでも歌うように話しかけてきた。コアラとインコの絵を描いて
「コアラは抱くとだんだん弱って死んでしまうこともあるんだよ。昼間はユーカリの木の天辺で眠らせておくのが一番。日本の蛍と思えばちょうどいいでしょう。蛍は水辺でそっと眺めるのが風流でしょ。団扇などで叩いて捕まえちゃ、風流が台無しになってしまう。それをここでも守ってくれたら。コアラが水を飲まない訳と、鳥がきれいな色をしているわけを教えてあげる」 ディリ・ジェリースさんの白い歯と、赤い舌で日本語がうまく転がり始めた。
「昔、旱魃のとき村で水を貰えなかったいじめられっ子が居ってのお。村人が狩で留守になった時、その少年はいつもの仕返しに村の水を全部ユーカリの木の上に、運んでしまったそうな。それから『ユーカリがぐんぐん伸びる歌』 を歌って、村人の手が届かないところまで、水を持って行ってしまったそうな。 村人は怒って仲間の魔法使いに仕返しを頼んだそうな。少年は魔法使いに捉まって、高い木の上から地面に投げつけられて潰れてしまったそうな。 しかし、アボリジニの祖霊は少年をコアラにして命を救ったんや。その時から、コアラは意地を張り続け水を飲まなくなったのさ」二人は聞いた。
「じゃコアラを水溜りに、落としてしまったらどうなるの」 ディリさんは
「水ぎらいのコアラが山火事を起こしブッシュの森は、焼け野が原さ。そんなところは今では砂漠になっている」
「それって、今でもコアラが人間に、復讐しているってこと?」 ふたりは、コアラの見方を改めた。
「とげが刺さった小鳩が居ってのォ。鳥なかまたちが看病していると、傷口から光がニジのように吹き出て、鳥たちが今みるような色に染まったのさ。いじめたカラスは黒いまんまだけどね」 ディリさんは一息ついて片目をつむった。
「『蛍こいの歌』 は西海岸のブルームで、真珠とりだった岡山出身の元日本兵のおじいちゃんからよく歌ってもらったのや。「僕は半分日本人」 やっぱそうかと二人は思った。
「僕は土産物屋も、観光案内もするアボリジニさ。いつか日本に行きたいんだ」 と、握手してきた。
「お店の看板はそのとき集まった鳥たちだったのね。光の渦は小鳩の傷口から出てたのね。足跡は犯人カラスの足取りだったのね。サインと顔はディリさんだ。ここが焼鳥屋さんじゃないのはよく分かったわ。これからこの旅先で、どんな不思議に出会ってもディリさんのことは忘れない」 そんな血が通う握手はいままでしたことが無かった。
次の朝、肩に止まった鳥に「昨日ディリさんから聞いたけど、小鳩たちはどうしている」 インコは「わたしたち、人間なんて平気さ。帽子に止まって、糞をしながら餌を貰って食べるけど、過保護でも、我がままでも何でもありません。目の前の物を貪り頂いているだけなのよ。お品ぶっていたら食事にありつけません。それが元気のひけつです。考え込んだり疲れたりするのはカラスと争ったあの時だけで、たくさんよ」
インコは餌を奪いながら、鳴きわめいた。ユカが餌籠に、溢れるほどの小鳥の束を抱え、ゴリの帽子で糞をしたところが写真に写った。二人ともなぜそんなに笑顔で写ったかって? 
それはインコが二人に、こっそり教えてくれたから
「小鳩があそこの砂場で今日も踊っているわ。あの時から小鳩はカラスと反対の純白になれたんですからね。なかまのおかげで助かったあの日のことを、今も噛み締めて踊るんだわ。いつになっても鳥仲間の親切を忘れられないのよ。傷ついた小鳩をいじめてしまったカラスはあの日を忘れたいでしょうけどね」



妖術使いの父さんが三姉妹を、岩にして求婚者の魔物から隠してしまった。怒った魔物から、姿をくらますために物まね鳥になってそのまま人間に戻るのを忘れてしまった。あわてものの父さん。
岩にされて、声も出せない三姉妹のため息があたりに漂っていた。
「父さんは物まねばかりしているうちに自分が誰だったのかも、娘を岩にしたこともきれいさっぱり忘れたのかしら。北側に見える青い山にはいかにも妖術使いや魔物や仙人が住んで居そうだわ」
「ディリさんの。真珠とりのおじいさんもね」
「・・・・」
「いじめられっ子が歌ったという『ユーカリが ぐんぐん伸びる 魔法の歌』 ってやっぱりユーカリを、目一杯褒めたんだろうな。

きみユーカリは凄いやつ
いつでも伸びて
姿を変える
枝や葉の水脈あたりが
風や光でほんのちょっと変っただけで
おいらの望みがすぐ分かり
やすやすとやりとげる
きみユーカリは凄いやつ
伸びたいときにいつでも伸びて 
おいらを天まで運んでくれる

「コアラが今さら思い出せない歌はこんな歌詞だったかもしれないね」 ゴリが言った。
「・・・・」
「人の声色をまねてディジュリドウで歌って聞かせたら、コアラは少年だった頃水がどんなにおいしかったか思い出すかも知れないね」
「そんな事になったら、もうコアラじゃなくなっちゃうよ。元のいじめられっ子に戻ってしまうよ。でも、まっいいかあ」 それからゴリとユカはディリさんの言いつけを破って、気難しくて怒りっぽそうな重い塊をそっと抱いた。
コアラは言った。
「いじめられっ子って何のこと? どこにいたのかな。そんな子。コアラは眠っている今が一番冴えているのさ」 ユーカリのにおいがした。
コアラを抱いた感想は
「こうしてディリさんとの約束を破ってばかりいると、旅が終わらないうちに、自分たちにも魔法をかけられそうだ」 と、言うものだった。



シー・ワールドではヘリ・ポートからヘリが次々吐き出され、縁日のようなにぎわいだ。イルカも参加の縄とびに出かけ、ふたりも舞台に駆け上がる。海と地面と空がびゅんびゅん渦巻く。サーファーや熱気球やダイバーやヘリが輪の中へ吸い込まれる。物と物の境が綱の中で混ざり一つになり、引き裂かれて流れ落ちて飛び散る。一緒に遊んでいるつもりがいつか二人はイルカを追って水の中へ飛び込んだ。そのとき、水着からディリさんらしい声がした。
「ゴリ! ユカさん! 驚いちゃいけないよ。祖霊はいつもそばに居て、その人に一番相応しい物に少しずつ変えているのだよ」 大きな縞模様の波の影がふたりに落ちる。水の中にも、風が吹き昆布の林がゆれる。サンゴ敷きの白い一本道が光りかげる。
「浦島さんの玉手箱の煙も、実はアボリジニの祖霊から乙姫様への贈り物だったんだよ。それを使い回しして難を逃れた乙姫様はオスカー女優賞ものだね。話を戻すけど世界は同じような昔話で繋がってるってことだよ。だから竜宮城はケアンズのサンゴ礁の中にあるんだよ。楽園の思い出を汚さぬように、日本の浦島太郎さんには年取ってもらったんだよ。だって乙姫様はいつだって、子供たち全部を励まさなきゃ、いけない役割だからね。」 ディリさんの泡のような声が消えた。
すると、イルカも故郷を懐かしむように飛び跳ねる。ゴリとユカは稚魚になったように親のイルカの影を一心不乱に追っていた。ユカはイルカの水着に気づいて答えた。
「この水着を着ると産まれたばかりのヒヨコのように頭が空っぽになるのね」
「分かる、わかる。『ただ今変身中につき声を掛けないで』って感じだね」 ゴリは言った。
「イルカのジャンピングも真似してみたい! バンジィー・ジャンプでアボリジニの変身の正体が分かりそう」
ユカはふと思った。
ただ、そう思っただけなのにアボリジニの案内役は「それでは今から始めましょう。日本人は初めてですよ。」ユカは腰から下を手早く人魚のように括られた。ビルの屋上の高さまでクレーンでまっすぐ吊り上げられた。
「ユカが空を錐もみで楽しそうに手をふりながら飛ぶ。それをゴリが手を振りながら、地上でのんびり見物している」ゴリも記念写真でも取るぐらいの気軽さで思い浮かべただけなのに。
「もう遅いふたりはアボロジニの祖霊たちに、見込まれて取り囲まれた。金縛りにあったように身動きできなく固まってしまった」



舞台のアドバルーンが一時間かけて膨らんだところで、マキリの絵画の家庭教師カゼクラ先生が高さ五メートルの脚立の頂上から、舞台めがけて跳びだした。
カゼクラ先生は飛んでいる姿が観客の印象に残るよう、空中に止まって見えるようにと、ストロボの閃光めがけて跳んだ。
ピカーと光った後、大きな音がしただけで暗闇しか見えなかった。結果は大怪我で、カゼクラ先生は会場の中野公会堂から、救急病院へ直行だった。
あの追い詰められた場面と、ユカとゴリの今はそっくりだ。カゼクラ先生はストロボの閃光めがけて飛び込んだ。しかし光は1秒で地球を7まわり半の速さで逃げていく。
カゼクラ先生のもうひとつのパーフォーマンス(イヴェント)は、ジュラルミンのトランクに、先生が足ひれを付けて入って外から鍵をかける。
カゼクラ先生が中から合図したら外の人が鍵を開け。カゼクラ先生が出てきてアドバルーンの中に移る予定だった。合図が聞こえなくて、トランクの中は酸欠になって先生は死にかけた。
ユカにもゴリにも合図はいつまでも出ないし、風の音さえ消えてしまった。
あの時のカゼクラ先生には地球の回る音しか聞こえなかったそうだ。さすが神様とあだ名されていただけの事はある。しかし、すぐそばに地球の支配者人類が二人も居て、言葉というものもあったのに・・。
神様に死ぬ思いをさせてしまった人類なんてどんなに罰当たりだったろう!
このときのカゼクラ先生も、いまのユカとゴリの気持ちとおんなじだ。
風は回り背中を鞭打ち。ユカはもう跳ぶだけ。背中を支えてくれた案内役もすべてをユカにゆだねる。親切そうな慰め言葉はぜんぶ嘘っぱちです。もう自分しかありません。自分という車を運転しているし。意識してそうしてきたはずなのに。バックからくるストロボがまぶしすぎる。視界はどこもかしこも真っ白に飛んでしまって車庫入れができない。このまま日本に帰れなくなる。ユカとゴリが関係なくなる。兄弟でなくなる。落下地点の池の周りでは豆粒のような顔が興味深げに見上げていた。
「釣られた魚がジャンプすりゃ。熱い砂獏でトカゲになった。たぬきや狐の真似して、化けたとしても、行き着く先は認知症の物まね鳥。もとの姿にゃ戻れない」 ユカはうわ言を口走りながら倒れるように跳び出した。
「さっきまで吸っていた人間の息を、思い出せなくなっています。ああ。大陸の祖霊の皆様。お好きなように。おまかせします」 と祈るユカ。
「贅沢は願いません。命だけはとらないで。姉のユカを岩にしてでもいつまでも生かしてやってください」と、ゴリ。
そしてユカは気を失った。ゴリも一瞬、物まね鳥になって、イルカの事しか思い出せない。そのときディリさんの歌声がしてきた。
「イルカや人間にこだわっていると、そのうちとても恐くなる。どちらへもいつでも行けるようにしてること。どちらが得で、どちらが損でもないんだから」 体に巻いたロープが、伸びきって風の音がして再び時が動き始める。
「ゴオーッ」 ユカは無事に地上に戻っていた。二人はいつの間にかイルカ気分から人間に戻っている。ディリさんの声がかすれ飛ぶ。

冬のかなたの夏へ鳥が渡り
冬のかなたの夏へ雲が流れる
そんな大きな乗り物で
大きな旅をしているんだから
おいしい物を後までとっておく子のように
慌てずゆっくり飛びたいものだ

案内役の青年が
「かんぱーい。動物植物、祖霊、皆にかんぱい。ユカさん、ゴリだけの秘密にしておくにはもったいない。すばらしいジャンプでしたね」 ジャンプ証明書を書きながら片目をつむった。
「ユカはあのとき生まれ変わったんだ。海も風も空もわたしも、全部が溶けあって光ったんだもの。それがまた別の知らなかった大きなしずくの命に抱かれてた。それがわたしを守ってくれた。純白の小鳩みたいだけど。いつ付いたのか、おでこの掠り傷から虹の光が吹き出して西の夕空を染めていた」 
「まさしくそれが先祖の教えの全部だよ」 ディリさんが締めくくるように答えた。
ホテルのベランダのタイルをカタツムリが目に見えないほどゆっくり動いていた。
「ユカ。わたしもバンジィー・ジャンプのときの切ない気持ち、知ってます」 アンテナの触覚を伸びるだけ伸ばしている。タイルの肌触りを地球の裏側まで発信するように近づいてきた。そのスピードはジャンボ機より速いような気がふっとした。



世話役のことを本当にみんなが忘れたかけた頃もう旅は終わりに近づいていた。ユカのバンジィ・ジャンプのことは知れわたっていた。なぜかって、ユカに連られて一行の中から二人も跳んでしまったらしい。ルール違反の酔っ払い運転の人もいたらしい。気を失ったユカとしてはその人の気持ちも少しわかった。
夏のシドニー湾を風が吹き渡りかもめが船の周りを渦巻いていた。水面がいま沈もうとする夕日に照り映えていた。
この立体の精気ある風景が突然、印象派の永遠の平面に変わってしまうような気がした。それはそれで何も不自然なことではない様な気がした。
もう決して、このメンバーで出会うことのない、さよなら慰労会が始まっている。山羊足商会の世話役が
「慰労会のつもりがバンジィ・ジャンプを語る会に、なってしまったようです。でも、それはそれでよい旅ではなかったかと、胸を撫で下ろしている次第であります。良い中年おじさん二人とユカさんに
『オーストラリアのマザーグース』 ということで体験談を聞いて見ましょう」
「若返るんだよ。一度やったら癖になるね。今度来たら俺はまたやるね。かならず」 と一人が言えば
「何がおきたか、わからない。酔っ払い運転で起こした一種の事故のようでした。独身の俺にとって自殺行為だったかもしれんが、おかげで欝は吹き飛んでどこにも無いね。ここにいるのはほんとの僕か、教えて貰いたいぐらいなもんだ」 負けじともう一人が言っ放ったものだ。
ユカは強いパンチを食らったように絶句した。もう、あのパフォーマンス(イヴェント)での心配は忘れたいのに。まだこれからも、あの時のフラシュバックが続くとは:。夢の外なのに夢の中みたいな。思い出したくもない行き詰まりのようなところから言葉が沸いて出た。

二週間前に飛び立ったテントウムシは
火事に気づいてお日様めざし
めった開かぬ羽を
背伸びまでして広げ火事場の我が家へ帰るとき
みんなが豆粒となって見上げてた

テントウムシよ また会おう
ユカやゴリよ また会おう
後ろの正面 誰あれ

「確かに飛んでいたね、ぼくも。」 ゴリは自分に言って肯いた。
世話役は
「ここに誠に、的を得ない三者三様の感想そのものがナーサリー・ライム発生現場という訳であります。それに偶然立ち会えるのも何かの・・偶然の・・有意義であり。山羊足商会としても面目躍如の感があります」
と、無理やり締めくくった。それから付き添い役の黄色いシャツのおじいさんが預けていったという手紙を二人に渡してくれた。
ユカ・ゴリ様へ 付き添いの黄色シャツより
ゴールド・コーストまで二人はとてもよくできました。今じいちゃんはケアンズの娘のところへ急いでいます。ディリさんのおじいちゃんの事も調べは付いていますよ。
「日本から潜水艦でシドニー港まで攻めこんで捕まったがその快挙にオーストラリアは敬意を持って迎えた。」 とありました。第一日目の朝、シドニーの戦争記念館に行ってそのことを知りました。確かに浦島さんのような人ですね。日本人はシドニーから出発してケアンズの竜宮城を目指したがるようです。娘も確かにそうでした。気をつけて残りの旅をたのしんでください。
さよなら、また新宿の本屋さんの二階であいましょう。
追伸 
これ以上、アボリジニを真似て変身しようとしてはなりません。
命がいくらあっても。身が持ちませんからね。間違えてもバンジィ・ジャンプだけはしないでください。いくらあっても。身が持ちませんからね。      
じゃー、また日本で

世話役は手紙の中身を知っているらしく困ったように片目をつむった。船が湾を一周して振り出しに戻るとあたりは暗闇に包まれていた。

10

ディリさんはニジ蛇模様の派手な甚平さんを着て待っていた。
「近いうちおじいちゃんの故郷日本に留学します」 お土産はユーカリの樹液で作った石鹸にした。コアラのミルクとおなじ匂い、カラスにいじめられた小鳩が吐き出した、鮮やかな七色を秘めた石けん。
カゼクラ先生にも
「バンジージャンプ、とても怖かったよ」 と言って渡したら、
「方法は媒体を選ばない」 受け取りながら難しいことを云ったが
「アボリジニの祖霊は人間や動物を選ばないで変身させる」 ことを、カゼクラ先生流に言っているのだと思った。
父さんにも、みやげ話のコアラをこっそり抱いたところで、タイミングよく渡したっけ。
家ではもうとっくに使い切ってしまったイルカ印の石けん。
水着も今では小さくて着られなくなり、思い出のシャボン玉だけがいつの間にかアドバルーンのように胸の暗闇に浮かんでいた。

(2009・9・3)

2010年4月12日月曜日

服喪のmur-mur2 ババは もう そう長くない (注)



なにも映し出さない鏡を、印度の行者が作りました。
「なんでも、同時に映る鏡を欲張って作っていたら、失敗してこうなってしまったんだ」
じっと見つめる目は焼けただれ、伸ばした手は溶けてしまう。
嗅いだ鼻はもげ、なめた舌は焼けただれ、体は写らず、どんな思いも届かない。
訴える声。
雷の脅しの音。
どんな音も、鸚鵡返しに相手に返される。
それを聞く耳の鼓膜はやぶれ。
植物の樹液が木を駆け上るかすかな音も、聞き届けられることは一切無く、鸚鵡返しで、弾き返されてしまう。
わく組みだけの、鏡のようだが、なかは坩堝になっていてバチバチはねている。
ドロドロに溶けた数字のゼロのような、のっぺら坊の熱の固まり。
のぞく顔も映る空も、吸い取ってしまう。
身を投げたひとが永遠に人柱になっているような、深い井戸の底の冷たい石に似ている。しかし裏側からはブラックホールのように硫黄の煙を、もうもう吐きだしている。
そのマグマの鏡から、ひとかたまりの光が噴射している。
あるとき川辺の柳の木に、破片が降りそそぐ。それが、水面に落ちるのを、行者は見逃さなかった。
さざ波とも、刃とも知れないものが泳ぎ始める。
やがてそれがシシャモとなって、川を遡るのを見届けた。
「その鏡は物を写すより先に、いきなり動物の食べ物になろうとしたんじゃ」
「そのシシャモはマグマの鏡から、いきなり運ばれて来たんじゃ」
「下町浅草の夕餉の食卓に、銀色の串刺しのシシャモが並び、金色の卵が胃に落ち。卵は孵り、稚魚になって泳ぎ始める。そして、人の体のあちこちに透きとおった卵を、産みつけ・・」 行者はそこまで言うと、役割を終えた手品師のように消えました。

おひなさまのつぎの日でした。
兄と妹は甘酒でほてった顔を、窓から出しました。
窓ぎわに置かれた植木鉢には、エンドウやナス、トマトの花が咲いていました。
犬は物置小屋で生まれたばかりの子猫を見つけ、甘えるような声を掛けました。
その暗闇をふたりがのぞき、子猫を犬から救いました。
犬は遊び相手を取り上げられて、鉢の花に八つ当たりすると眠ってしまいました。
そんな騒ぎを、ベッドで笑いながら見ていたババが言いました。
「わしにもその白酒の五合ビンを、抱かせておくれ」
「ババ、ぼく達、これからあんまりババの役に立たないと思うよ。御雛様には一日、間に合わなかったしね」
「気にしないよ一日ぐらい。で、どんな白酒だい。軽いやつかい」
「長野産のもち米で作った、『富士の白雪』だよ」
「なんだって、」
「知ってるだろ。よく飲んでた『富士の白雪』だよ」
「ほらこれ」 ババに渡す。
「また馬鹿に大きいビンだねババの赤ちゃんにしよう」 ババは両腕でビンを抱きかかえる。
「南無阿弥陀仏。こりゃまた重いねー」
「今、湯飲茶碗一杯だけ飲んでいいかい」
「すきっ腹にいきなり飲むの。何か食べたの」
「食べなきゃ飲んじゃいけないのかね。飲みたいんだよ、それだけなんだよ」 ババ一杯飲む
「何も食べてないから良く利くね」
「赤ちゃんと言やーね。東側のポプラの木を見てごらん。蜜蜂が赤ん坊位の大きさになって群れているよ。昨日、病院から攫われたという赤ん坊ね。わたしが睨んだところ。あの中にいるよ」 孫たちに言いました。
「ババ、今日は、ばかに飛んでること言うんだね」
「そうさ。女王蜂は寝たきりでも赤ちゃんだけは大昔から大事に守ってきたからね」 ババは言いました。
「ババは、いまの事を忘れる分、昔の事を思い出して、手に取るように分かっちゃうんだ!」 孫たちはババに調子を合わせて頷きました。
「群れの一匹がさっき犬を刺したんだよ。犬の奴、それで暴れたんだ」 ババは眉をひそめました。
「町内会の騒動に、ならなきゃいいがね」 ミツバチの群れがいる、ポプラの木を見上げました。
そのときババにはポプラの枝から、大きな影が飛び立つのが見えました。
ババはぶよぶよ動く蜂のかたまりを見ているうちに、いつか一緒に暮らしたことのある、フルーツ・コーモリを思い浮かべました。
その瞬間、その想像のコーモリが飛び立ったのでした。
それが孫たちにも伝染して、三人とも夕空に「ふわっ」 と、舞い上がったような気がしました。
薄暮の大魔が時でした。

コーモリが飛んでいった先はね。鍾乳洞でしたよ。
トンネルは洞窟の中で枝分かれし、袋小路になり、大広間になり30メートルの滝つぼに繋がっていました。
そこは、巨大な恐竜の胎内のようで、散歩していると、2400年が過ぎてしまうタイムトンネルだったってわけさ。妙に落ち着くところでね。年中気温は摂氏18度なんじゃ。
コーモリがそこに入ったと思われる薄暮の瞬間、ババの顔がぱっと輝きました。
そこは2400年も昔の若い頃のババと、その子供たち50人の住みかでした。
洞窟に巣くっている、フルーツ・コーモリを操って、夕方から夜にかけて町の空を飛び回り赤ちゃんをさらいました。
コーモリはこの洞窟でわたしに獲物を渡すと、やっと自分の餌を探しにとび立ったものです。コーモリがこの順番を間違えると、わたしの末娘が昼間、竹ざおで天井から叩き落すことになっていました。
その日も、新鮮な食材がまな板に並びました。
「今日も、くたくたに疲れたわ。でも、ご馳走なのよ。わたしの留守中、怠け者のコーモリはいなかったか」   若かったわたしは末娘に聞きました。
「いなかったわよ。それよりね、変わったことがあったの。入り口の睡蓮池のそばで、女がふたり口もきかないで座っていたのよ。一日中。私、食事を運んであげようと思うの」 わたしは釜戸に薪を投げ込みながら
「怠け者に、食事を恵むなんて許しません。あれは座ってばかりいる怠け者なのよ」 わたしは髪の毛に燃え移る、かまどの火の粉を、払い除けながら末娘に答えました。
「わたし達にはお腹をすかせている兄弟が50人もいて、今仕事を終えて帰って来るのよ。座っているひまなんて、家の子にはありません。無駄口を聞かないでミート・カレーのお皿を、どんどん並べてちょうだい」
次の朝、わたしは女弟子たちに毒づいてやりました。
「行者の弟子なら、なんでも出来るはずだわね。となりに咲いてる睡蓮の真似でもしてごらん。朝、塵芥の中から顔をのぞかせ、ポンとはじけて咲き、夕方は花びらがダイオードのように光り。夜は蕾んでまた汚れた水中に沈み。それでいて何も誇る様子もない。それが出来ないぐらいなら、金輪際娘の前に姿を現さないでおくれ。こちらは食うだけで、精一杯なんだから。人の怠けた姿を、娘に見せないでおくれ」 女弟子達は
「人は、睡蓮の美しさには、かなわないのよ。わたし達は、こんなもので出来ているのよ」 体をぽんと裏返すと、目玉をはずし舌を抜いて、お腹の臓物もどろどろと手のひらに載せて見せました。そして
「何もしないで、いくら怠けて見えても常に動いてしまうのがこの臓物なのよ」 と言いました。
わたしは気絶しそうになり二人をますます軽蔑しました。
夕食のしたくをしながら、末娘に耳打ちしました。
「あそこに近づくの、許しませんからね」
「あら、どうしてなの」
「『赤ちゃんを、さらわれた親達が行者の道場に、かけこんで泣いている』 と今日、町で聞いたわ。わたしがさらったと、うわさが立っているのよ。親の不注意のせいなのにさ。わたしひとりを、悪ものにするんだよ」
「それでわたしはどうしていれば良いというの?」 娘は聞き返しました。
「言いふらしたのはあそこで、いつも座って見張ってる、あの女弟子二人に決まってる。だから、あそこに近づくのは絶対許しませんからね」

次の朝、末娘が見当たりませんでした。
「懲りもせずまた、来ていやがる」 わたしは腹いせに女弟子に食って掛かりました。
周りの睡蓮を引き抜き二人に投げつけると
「この役立たず。怠け者。疫病神。大切な末娘を探してくれたら。何でもくれてやる。もしおまえらが隠したのなら、私の命と引き換えに、返してくれ」 わたしがそう懇願すると、女弟子はやっと口を利きました。
「道場に来て悩みを打ち明けると良いでしょう」 と、わたしを道場へ案内しました。
行者は泣き崩れる、わたしを見て、
「50人もの子宝に恵まれたのに、その中のたった一人を見失っただけで、身代(みが)わりになりたいほど悲しいだろう。どの親も同じなんだよ」 静かに言いました。
「その子がもう鬼に食われて、骨になっていたらどうだね。これからは、攫った子を食わないことだね」 自分は鬼だったのだと、思い知らされた瞬間でした。
胃の腑のシシャモの金色の卵が、いっせいに孵ったように、体中が花火のように閃き渡り。わたしは吠えるように泣き続けておりました。
「ちょっと、こちらを見てごらん」 見上げると、行者の衣のすそから末娘がわたしを見下ろして立っていました。
「反省したのなら、今までの事は許さなければなるまい」 
行者は言いました。
「わたしは急いで洞窟に戻り、わたしが鬼だった時、さらった子を悲しむ親のもとへ、フルーツ・コーモリと手分けして送り届けました」

「へえ!」 孫たちはため息をつきました。
わたしが行者の前で、涙を流したとき、東側のポプラの横に、虹が立っただろ。
あのときが、虹になったんだよ。
それから私は急いで、赤ん坊を返したんだよ。私が帰した赤ん坊の中に昨日病院でさらわれた子がいると良いのにね。
しばらくすると
「昨日さらわれた赤ちゃんが、病院の玄関で元気一杯、泣いているところを、警察に無事保護され両親の元に返りました」
って、テレビが言いますよ
ひな壇の右上はお父さんのバーチンカ。左側がお母さんだったこのババ。
下の段に、末娘と、数え切れない兄弟達。
ひな壇は昔からそんな風に、順番が決まっとるんじゃ。
「ババはどうやってタイム・トンネルをくぐって大昔に行って来たの」 孫が聞くと、
ババは
「はあて」 と、考え込んだが当たり前すぎて、説明する言葉が見当たらないとでも云うように
「この頃は息を吸うときに、余計なことまで思い出して、吐き出すときに大事なことを忘れてしまうんだよ」
ババはそこまで言うと役割を終えた手品師のように
「にいっ」 と、自分だけに笑って深い眠りに落ちて行きました。    
眠りの落ち行く先はなにも映し出さない鏡の中でした。
最初のシシャモの金色の卵が胃に落ちて体中で卵は孵り、稚魚となって泳ぎ始め。
そして2400年ものあいだババの体のあちこちに、透きとおった卵を産み続けた。
そのシシャモがさざ波とも刃とも知れない光となった。
それがフィルムの逆回転のように川を上り川辺の柳の木に遡上し。
空に舞い上がり産みの親であったマグマ鏡に、一塊の光として擬縮する。
「印度の行者が何でも同時に映る鏡を欲張って作っていたのもほんとうのことで。失敗して何も写らなくなったのもほんとうで。何も写らないから何でも見えてしまうのではないか。行者が衣から娘を出したように。きっとあの衣こそ行者の発明品なんだ」 孫達はそう思って、おばあちゃんの肩に毛布をそっとかけ直しました。
「ババはわく組みだけの鏡、と謙遜して言っていましたが、本当は中身がいっぱい詰まっていたからこそ、坩堝のようにバチバチはね、ドロドロに溶けたゼロのような熱の固まりが行者にははっきり見えていたはずです」 眠り込んだババの前で孫達はあれこれ推測して、もじもじと見つめ合いため息をついてベッドを時どき覗きこむのでした。

(2009・8・27)

(注) ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ 「エレナ」より引用

2010年4月10日土曜日

服喪の mur-mur 適度のストレス



オレンジの体にオパールと、エメラルドのマントを纏って朱色の二本足ですっくと立っている。
見たことも無い美しい姿が鏡のような水面に映った。
おいらは餌探しで精一杯で、水に映った空や雲になど気が付いたこともなかった。太陽などは邪魔者以外の何ものでもなかったからね。
「世の中にこんなに綺麗な物があったんだ。なんだろう」 と思った。向こうもちょっと首を傾げているところを見ると生き物らしい。影の裏側にはおいしそうな小エビが、のろのろと餌になるのを待っている。おいらは、勢いよく小エビめがけて、枝を離れて水面に突っ込んだ。宝石のような物が風船玉のように、目の前に広がってぶつかってきた。水面が、虹色に光ると、後は水の中に、ちらりと小エビが見えただけ。
おいらは水面の影に気を取られ、小エビの事は忘れて、力いっぱい、突っ込んだ。水面が割れた時、水めがねの役をする幕を出し遅れていた。勢い余って、エビを取り逃がして川底の、岩肌に激突してし、目をやられた。
枯れ枝に舞いもどると、ぼやけた虹の欠片が水面にちらっと揺れた。目の傷のせいでそう見えるのかもしれない。餌も咥えず、慌てて巣に戻った。
狭い入り口に尻尾から入ると、巣穴は蛇の気配も子供の気配も無く全くの空っぽだった。
「そうだった、子供たちは餌捕り特訓を終わって、昨日巣立ってしまったんだ」 しばらくすると、妻が戻ってきた。
「三羽が同時に巣立ってしまうなんて、むなしいもんだね」 おいらは言った。
「そうね、それで餌取りする気もせず、ぶらぶら散歩して来ただけなのね」
その日は妻の捕ってきた鮠をもらった。
口移しで 貰ったのは雛のとき以来初めてだ。
「一週間、厳しく訓練したけれど、急に、やることが無くなるね。寂しいもんだ。」
美しい生き物のため、取り逃がした小エビの話をしながら、目の傷を妻に見せた。
「これから、本当の人生が始まるというときに『餌を取れなくなった』なんて、惨めな言い訳はやめてくれない!」 妻は今まで通り縄張りを広げる事ばかり考えていた。
次の日、二羽で餌捕りに出かけた。妻は一声鳴くと、見事なフォーバリングで、小エビを咥え、早速巣に戻って食べた。仲間は、その場で、いきなり生き物を、飲み込んだりしないんだ。おいらも一匹の鮠を咥えて巣に戻り、
「ご馳走様」 と遺骨を残したが、それだけで腹いっぱい。また枯れ枝に止まったが、自分だけが食べる餌を捕るのが
「ママゴト遊び」のように嘘っぽかった。あたりで、カシャカシャと、シャッターを降ろす人間共に踊らされているような気もしてきた。おいらは餌を追うのをやめて、目立たぬように岩に降りた。苔むした岩には、樹皮を剥いだ枯れ枝が、岩に結わい付けてあった。
「これは、何なの」 おいらは岩にこびり付いている苔に聞いてみた。
「これは私とちがって青々としていません。流木といって、根っこもありません。人間がカワセミのために作った飛び込み台という仕掛けです」
「仕掛けって何ですか」
「あなた達が、餌捕りに便利なように、人間が作ったものですよ。その見返りに、カメラを構えて、きみたちを一日中、追いかけているじゃありませんか。目立たない苔にとってはうらやましい限りですよ」 苔は俯きながら言った。
「でも、このごろは川底の釣り針が気になって仕方ないのよ」 苔と話していると、妻が仲間を連れてやってきた。仲間達は枯れ枝の二股の天辺に、止まってためらいも無く、飛び込んでいく。
足元に運悪く髭ぼうぼうの土の固まりそっくりの川ガニが隠れてた。おいらに駆け寄ると、足を挟んで離さない。岩にもたれかかって嘴を使って難を逃れた。
「川ガニなど恐れて、もし相手が蛇だったら、今頃、丸呑みされてたわ。突然どうしてそんなによぼよぼの足になってしまったの。ここはわたし達の縄張りなのよ。守らなくては若いカップルに、乗っ取られてしまうのよ」 妻は枝先でおいらを睨んで言った。
「仕方が無いわ。近所の子育てが終わった仲良しに、手伝ってもらうことにするわ!」 妻と二羽はおいらを脅すように飛び回った。
「昨日まで守り続けた餌場にも、子育てが終わった私にも、未練などもう無いんでしょ! 私たち三羽で縄張りは守ることにするから、あなたはすぐ出ていって。生まれ故郷にでも帰るがいいわ。苔に、進路相談するがいいわ」
おいらは川上に向かって逃げるように歩いた。
カニに挟まれた足をかばって、一本足と片方の羽で体を支えていると、親しみを込めてるはずのシャッター音も、命を狙うポンプ銃に思えてきた。
「これからは自分の食い扶持だけ捕れば、後は全部が蓄えよ! 時間だって全部自分のものよ。美しさだってカメラを吸い寄せるほどだし。力を合わせてもう一花咲かせましょう。他のカワセミが近寄れないように。私は、歌をもっと上手く歌うわよ」
子供を生んだことの無い同年輩が、高らかに縄張りを主張した。
「蛇から身をまもるための談話室も作って三羽で心豊かに暮らしましょう。それぞれゆづり合って旨くやりましょ少々の我慢もしてね。未練たらたらで縄張りを捨てていく人を。励ましたらだめよ。自殺するかもしれないわ」くちばしが黒い元妻が歌舞伎の女形のような甲高い声で言った。
「突然、カワセミが川に潜れなくなる。なんて、聞いたことも無い」 口が朱色のカワセミがおいらの役目を引き継いだが、その後どうなったのだろう。おいらは気を失ってその場に倒れてしまった。
気がつくと人間の手から擂り餌をもらっていた。プライドが許さなかった。鴉にでも襲われたほうが納得がいく。それで羽をばたつかせてみたが、点滴の管と足のギブスが絡み付いて体がうまく動かない。七の日目の朝おいらはその鳥小屋から脱出した。というより素直に告白しておこう。
「まだ、生きろ」 と人間に野性に戻されたわけさ。
飛びながら冬の雪の中、薄氷の谷川に飛び込んだ自分を久し振りに思い出した。餌を咥え、小さな巣穴に、お尻から入って、子供たちを驚かせ喜ばせた。あの時おいらの背中は、どんなに男らしかっただろう。
しばらく行くと、見たこともない。名前も知らない、丸いものが同じ形で、一面に咲いていた。鳴き声も出さずただ風に揺れ頷きあっている。
「うらやましいなー。君たちは、なぜそんなにどっしり座っている事ができるの。餌はどこから取るの。何も吐き出さないの」 尋ねたが、おいらが恥ずかしくなるほど落ち着いて
「餌は根が吸い上げ、炭酸ガスを吸って、空気を吐いて生きているのよ。花は咲いたら、種を残してミーラのようになって散るのよ。あなたが七彩色でどこへでも飛んでいけるのを羨ましがっていたのは私たちのほうよ」 決められた色で咲いて、嵐が来てもじっと動けない。逃げ出すおいらと同じ苦労をしてるんだ。
枯れ果てミイラのような種になって枯れてしまう者と、おいらの老いと比べながら、山奥の渓流を昇って行った。気がつくと、腹が減っていた。ここにも枯れ枝が岩に突きさしてあった。おいらは思い切って枝に止まった。
「しーっ」と、人の声がして、シャッターの音が谷間に響いた。水の流れに、虹がぼんやり浮かび上がって目の前に迫って来る。
「この姿は巣立った子供たちや妻にも良く似てる。するとこれが、おいらのありのままの姿だった」
おいらは病気でも怪我でも意気地なしでも何でも無い。新学期に良くある軽い鬱だった。極楽からでも飛んできたような凄い姿に、突然気がついたのだ。その出現に今しばらく慄いているだけなんだ。そう思うと、不安が消えて勇気が湧いた。勢いよく、小エビに向かって飛び込んだ。小エビは難なく捕れた。
その夜おいらはダムのコンクリートの小さな穴に、止まって夜を過ごした。
「さて、これから、どうしたものだろう。餌を捕れるようになった」 とは言っても、元の縄張りには戻りたくない。
渡り鳥達は、満月の夜、のわだかまりを捨て心を一つにして、違う空に一斉に飛び立つのだろうか。
地球全体が縄張りなんだ。細かいことで言い争ったりしない。おいらは、東南の空を見上げた。星の巣だった。蛇とか鷲とか、サソリとか、鳥にとって不吉なものが、登ったり降りたりしている。
水がダムから滝のように渦巻いて落ちてくる。
「明日、ダムに飛び込み餌を加えて舞い上がるんだ」 水に飛び込む虹のような姿のほかは、何も思い浮かばなくなっていた。次の朝、ダムの畔で夢に描いたホーバリングをして餌に向かって突進した。獲物底なしのダムに潜ってしまった。
ダムより上流の谷川に向かった。そこにはもうシャッター音は無かった。谷間の村落の石の地蔵さんに手向けるようにして清い水が流れていた。地蔵さんの頭に止まって一日観察した。年寄りの薄い影が時々歩いてきて、臆病なおいらを追い立てた。おいらが糞で汚してしまった赤い涎掛けを変えたり頭を磨いたりした。お構いなしにそこに止まって餌を探した。石の下に吸い付いて隠れているナメッチョと言うおいしい魚を狙ってみた。すると石ころだけの川底に、餌が一杯見えてきた。村の子供がおいらの嘴を見て
「カワセミがナメッチョを咥えてる。味噌汁の出しのナメッチョが、美味いと見える」 と囃し立てていた。でもそんな事は長く続かなかった。
山奥ははタカとトンビの勢力争いの最前線で、餌の奪い合いで攻めたり攻められたりを繰り返していたのだ。ある日、御地蔵様に向かっていると、いきなりわき腹めがけてタカが飛び掛ってきた。
トンビは注意深く空を旋回しながらタカの狩りの様子を伺っていた。おいらは本能的にダムに向かった。深いダムにタカは潜れないだろう。おいらは深緑色の石のようにダムに落ちていった。タカも水面まで追いかけて来て今日の食事にありつこうとした。おいらは初めて身を隠すために、水にもぐった。でもその記憶はなかった。
そうするほかに生きる道はなかった。人間に捕獲されたときカラスに食われたほうが良かったというのは単なる強がりだった。どれくらい息が続くのか試したことが無いので分からないが、なるべく時間の続く限り浮かび上がってこないようにしよう。
トンビは先に飛び去るだろう。
タカは今でも水面すれすれを飛び回っている。
「ダムの水を通り越した先に、空気のあるタカのいない別世界がある」 とも思えなかった。
カワセミは餌を追い、時には餌となって追われる野生に帰り、適度のストレスの中で、いつのまにか生き始めたのである。

(2009・8・27)

2010年4月9日金曜日

服喪のスートラ11 カマキリのmur-mur

  

カマキリは干からびた寒天みたいな揺りかごで目を覚ました。
松の小枝が東風にゆれると、雪のかわりに木漏れ日が降ってきた。
体長一センチほどの兄弟は、毛糸が絡まるように二〇〇匹も生まれていたが、親の姿はどこにもない。おいらにゃ躾けも挨拶も何もない。生まれたばかりは仲良くだき合っている。だがひとたび腹が減ってしまえば、カミソリのような鎌を使ってつかみ合いだ。どちらかが食われるまで続くのだ。それで月見草をクッションに地面に落ちると、蜘蛛の子を散らすように、お互いに見えないところへと逃げたのだ。おいらは野バラの茂みで生きのびた。兄弟の約半分は死んだだろう。
六月の梅雨の夜、おいらは命の思人に、お礼のつもりで登っていった。
「野バラはおいらの味方に違いない、あのときもこんなによい香りではげましてくれていた」 と思った瞬間「チクリッ」 返事の棘がわき腹に食いこんだ。
油断も隙もありゃしない。
引き返そうとしたが時間がない。一回目の脱皮が、もう始まっていたからだ。四本足を葉っぱに巻きつけ、背中が割れてくるのを待った。
明け方には、棘の横で血管が透けてぐにゃぐにゃの命が脈うっていた。
「おいらを刺し殺そうと、狙ってたなんて。バラの姿や香りなんかに二度とだまされないぞ」 体が乾くのを待ち、一回り大きくなっておいらは地面に転がり落ちた。
めった見せないへっぴり腰を、まっ赤なバラにさらしてしまった。
「お疲れ様。向こう見ずの、お馬鹿さん」
バラはつんとすまし。おたふく顔をふるわせて、風といっしょに笑ってた。
でもその時から、棘あるバラが、おいらのマドンナになってしまったのさ。あの初恋の想い。棘が胸に刺さり、気絶しそうな、しびれる思い。  
初夏の朝、おいらは、最後の脱皮で、大人になった。ぼやけた夏の月が始めて生えた羽の向こうに明け方まで輝いていた。それがはじめてゆっくりと見た満月だった。
八月のある日、茶色に燃え立つ麦畑で、餌を待っていると、青いものが這い出した。首をぐるりと回して鎌を振り下ろした。
次の瞬間、体中が肉汁にひたされていた。おいらは軽い風船が、重い満月になったように満たされていたんだ
「兄弟のカマキリを食べてしまったのかもしれない。回りは敵か餌か。逃げるか、飛び掛って行くか」 考えている暇もない。
九月の野分の吹く日。バラのマドンナに近づけば、千切れんばかりに花や棘を横に振る。一世一代の大人の羽を自慢したのに、おいらは単なるストーカー扱いだった。
「最強のライオンにさえ、家族という慰めがあるというのに」 稲の穂先で、落ち込んで俯いていると、すかさずスズメが飛び掛って来る。おいらは鎌と羽を広げて追い返そうとした。
運よく南の空で折れ線グラフのようなイナヅマが光り、雀は一目散に逃げ去った。
「よーし、いままでにない大捕り物を始めるぞ」 イナヅマはおいらが鎌を振りあげた時には、とっくに消えている。この大物は、なんて素早いのだ。おいらは胸を盛り上げて垂直に姿勢を正した。
「おいらは大人の羽が生えたのだ」 周りの稲穂に溶け込み、身を隠し少しずつ近付いてくる光と音をじっと待つ。
おいらは月が爆発したような生き物を、丸ごと生け捕りにしようとやっきになった。
「折れ線グラフをあやつって自在に空を飛べたなら。鳥もおいらを見なおして、襲ってこなくなるだろう」 その瞬間、脇を飛んでいたイト・トンボが七色に光って
「ドッカーン」 と雨がきた。
おいらは、そいつを手掴みにしたらしい。
火傷の鎌を開いてみると煙のほかに何もなかった。なんども、稲の根もとで、構えたが、そいつは見向きもせずに行ってしまった。おいらは電気ショックで腰が曲がったようだ。
十月は、妙に寒さが身にしみた。意固地なおいらでさえ、田んぼや野原や畑で仲間を探して飛び始めるありさまだった。凍える月明かりが
「私は世間をくまなく見たが、冬の生き物はみんな貧乏で、わが身を削って生きている」 と教えをたれていた。
食べてしまった生き物が、幽霊のように生き返り、おいらは罪人だった。それを云ったらおしまいだけど、もう殺生はこりごりだ。
―心配ないよ。餌はもうどこにもない。せっかく生えたその羽を、お嫁さん探しに使え―
天から聞こえたその声は、十一月の両親が、歌ってくれた子もり唄そのものだった。
おいらは、バラじゃなくカマキリの君をやっと見つけ、お尻のそばへそっと降りた。
そして固くなってふるえながらプロポーズした。
「お腹がすくね。雪ももうすぐ降るだろう。おいら達って、帰って行く家もないんだね。野原のどこにも餌はない。目に入るのは敵の鳥ばかりだ。父も母も冬を越せない身の上だった」
言い終わらないうちに、君の鎌がおいらの胴を、まっ二つに切り裂いた。生き残った君はおいらを食べて、満月のような卵を二00も産むだろう。産み終えてすぐ死んでしまうきみに頼んでおきたい。
この十一月のカマキリの悲しみを、子もり唄にして、ゆりかごの卵に、歌ってから死んでおくれ。きみがそうしてくれたなら。松の小枝は東風にゆれ。雪のかわりに木漏れ日が、揺りかごの絡まった緑の毛玉を揉みほぐす。       

(2010・1・26)

2010年4月7日水曜日

服喪のスートラ10 K先生への挽歌

 

前略
夏は暑い、まきり君が墨流しの授業中に発泡スチロールの風呂に入ったのも夏だった。例のわたしが小学生のまきりに行った授業、時計分解の事だが
「方法はメディアを選ばない」 と云う格言みたいな言葉がいつのまにかわたしの中に生まれた。その事の真意は時間に関係あるのではないかと思うようになった。それで事実と記録には時計が真実味を帯びる事などから時計を分解してみた。複雑で分解できそうもないが、わずかなドライバーとペンチで分解される。だが時は流れる。人は好きなところに時々トドマルのではなかろうか?
マキリ君の味う事について、不可解なものに対して理解しようとするときシタを出す、キッスもそうだ。わからないので交信する。のではないかと、考えさせられた。
長編散文詩ジャンルなどどうでも良いあの長い日記―自閉症児と父の日記―には、おかげで読むだけで二日もかかりました。まきり君が二〇才になるとは日記のなかでわかりました。時間の過ぎるのは早い。
私は今、福岡に出張に来て、珈琲を飲みながら手紙を書いている。左手は金色、白色、うすみどり、青色、が爪の間についている。それを見ながら、何を書くかなどと考えているが、思い出すがままに書こう。
まきりの日記は、道路に立つ信号や、広告板や道路標識が、正確に書かれていたこと、日記に昨日や今日、一昨日の境界線を引こうとしないのか、区切りがないのか、そのあたりがぼくに取っては大変興味があった。
それでまきり君にとって日記とは一体全体なんなのかはっきりしない。忘れそうなので記録するのか それとも私自身にみせるためなのか、と考えるがよくわからない。
だからまきり君の日記が中心よりも親達の日記が中心になった方が良いのではないか。まきり君を中心に心配というかさまざまなことを考えて時は去っていく、忘れることの出来ない人。まきり君。思い出したようにポツンぽつんと日付の不明なマキリ君の日記が入るほうがはるかに良いように思えるが。
親達は裸で吉原へ歩いていったことに対してのお詫びというかお礼というか、その事後処理や施設の問題や先生の事など良い悪いは別にして書いたほうが良かったと思う。
ヨシノリ様 マキリ様     風倉より




わたしが初めて黒い風を見た日。それは一九七三年の十二月二十日、午前一時のことでした。多摩ニュータウン造成予定地でのことでした。いまにも伐採される柳の枝を、黒い風が空高く巻き上げ。月食を見に行ったわたしたち三人を、その髪の毛に巻き込みました。風は柳の木の悲鳴を代弁して吹き付けました。月が地球の陰に飲まれ、鳥共が泣き騒ぐ瞬間でした。三人と柳と宇宙を繋いでいたのがその風でした。
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ。天体望遠鏡を覗きながら、今、見えている通りの事を、隣の誰かに伝えたい」 そんなことを思ったとたん、言葉に詰まってしまう。それに似て
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ」 今、公園予定地の砂ぼこりを空高く巻き上げ、いつか見たあの風が暴れているのです。
35年前のあのときのように、渦巻いていたのです。わたしは前の住人が忘れていった、よごれたカーテン引き、寿荘に差し込む朝日を、鏡で受け止めました。その光を風がたわむれている場所に向けて放ち
「わたしは一人浅草から今、ふる里のここに帰って来ましたよ」 と、挨拶するつもりでした。すると黒い風は娘や息子の写真などを吹き飛ばして、わたしに突進して
「やあ、帰って来ていたのだね。小学生だった君とはこの辺でよく駆けっこしたね。いつも君は冷え切って、日向ぼっこの細葉の囲いや、日の当たる路地に逃げ込んだね。君の弟が病気のときには、背中を押してヤギのお乳を、一緒に買いに行ったね。あの頃のチャンバラ映画館はもうありませんけどね。黒い風はこのあたりで、カラッ風なんて呼ばれていますよ。」 それからというもの、わたしの部屋を、風が覗くようになりました。わたしのほうでも風の音を聞き漏らすまいと、耳をそばだてて暮らしました。耳を澄ませば、澄ますほど春の陽だまりのサルノコシカケに、いつのまにか座り込んで、ひっそりと動こうともしません。
また、わたしのほうも風が話しかけているのに
「あの! いつか一緒に見た。あれ! あれ」 と、呟くだけのそっけない対応を何年続けたことでしょう。
鍬入れのときから見てきた、隣の新設大学はできあがり。正門前で咲き誇る、シデコブシの花に送られて、一回目の卒業生が出て行ったのは、今年の春のことでした。風は五年以上も辛抱強く、わたしを覗きに来ていたことになります。
「本当に風の声が聞こえているのかい!」 風はいつもそう疑って過ぎていきました。
しかし、今わたしはほんとうに風の声や歌が、聞こえたということが出来ます。わたしは墨流しの模様を、真似たのです。和紙を水紋にそっと浮かべたように、風の流れにわたしの蝸牛のような、大きな耳を集中して傾けたのです。人と話す事も一切中止して。それは素粒子に穿たれたフィルムを現像するような、辛抱が要る作業でした。
「あの!いつか一緒に見た。あれ! あれ」 風はわたしがそんなふうに乱暴に答えても必ず来ます。
風と比べて、人間の文字や言葉など、そんなに長持ちするとは思えませんが。まず訪ねてくれた風には、色の、呼び名をつけてやりました。風がそれを気に入ったか、どうかはまだ聞いていません。黙り込んだままです。風って奴は結構、天邪鬼なんですよ。



小学生の頃、茜色の風が夕焼け雲から吹き込んできました。大きな杉が畑中の一本道に覆いかぶさるように立ちふさがっていました。
大杉の東側にはお爺さんおばあさんが住んでいるという祠のような、小さい家が立っていました。家はいつも留守で人が住んでいるのを疑う人もいましたが、気味悪がって覗いて見るものは居ませんでした。
そんな塾への道を、毎日通うのですから、女の子の親が心配し、同級生のわたしと二人で通わせるように取り決めたのでした。その道は片道だけでも一時間もありました。その小学生の女の子はとても強情でした。楽しいことは自分が居ない所で、自分だけを置き去りにして起きていると思い込んでいました。
男の子同士がどんなに楽しいことをして遊ぶのか、いつも知りたがりました。ある日の事、わたしは女の子に、新津の林を、見せてやろうと思いました。いつものコースから少し外れて、林へ入っていきました。小川に架かった丸木橋を渡ると、そこは無人の水車小屋でした。誰にも教えられない秘密の基地で、セミの抜け殻や、マッチ棒小刀など腕白小僧だけの宝の隠し場所でした。女の子は丸木橋まで来ると
「狼に食われた赤頭巾ちゃんはお母さんが狼のお腹を裂いたときには、もう半分溶けていたんじゃないかしら」 と急に心配になって、丸木橋の上で立ち止まりました。
「あれほど、自分が居ないときの事を、知りたがっていたのに!」 わたしは怒って、女の子に言いました。
「入って覗いてみるかい。やめておくかい。ぼくだって、仲間との掟を破って、中を見せてやろうと思ったんだ。女の子の気紛れに、いつまでも付き合っていられないよ。」 女の子は
「小屋の中で何が起こるか、分からないのよ。二人が攫われたり、殺されたり、着ているものを剥ぎ取られる様な気がするの!」 と泣き出しそうでした。女の子は丸木橋を戻りました。
水車小屋からわたしが出てみると、女の子は自分の予感通り、刃物で刺されて、血を流して倒れていました。ほんの一分足らずの出来事でした。
「通り魔が、林の入り口に潜んでいたんだ」 としかわたしには説明できません。女の子を引きずって、通いなれた本道にでると、大人が数人出てきてはやし立て、わたしをひどく叱りつけ、わたしの言い訳もきかず、女の子を病院に運んでしまいました。独りになったわたしは牛蛙が浮かんでいる田んぼの夕暮れを、泣きながら眺めました。カミナリが遠くで光り頭上を過ぎ消え去りました。わたしは難破船に置き去りにされた船長のような気持になっていました。

どの子を欲しや
あの子を欲しい
あの子じゃわからん

新津の林から、子取りの囃子うたが聞こえてきました。風はまだ黒塗りの自転車がめずらしかった頃、100年も昔の、新津の光景を思い出しました。思い出の層が、新津の林の周りに、地層のように幾重にも重なっていました。大げさに言ってしまうと、地球のはじまりからの地層が風に思い出させているのでした。
記憶のプレートの隆起で、過去の地層が跳ね上がったりするのです。大正時代の女の子のヒマワリのような顔から、汗がぐるぐる飛び散りました。微細な光の点線が車輪の銀色のリムやスポークに反射していました。風は光の渦に取り囲まれていました。¥風と光は絵描きさんに写し取られまいとして、うなぎのように、逃げました。絵筆より早く。にゅるにゅる、と。
どんな話会いがわたしと女の子の親の間で執り行われたのかは分かりません。ほんの一分足らずの出来事でした。それからというもの、わたしと、女の子と男の子が一緒にこの道を通うのを見なくなりました。100年前と60年前と、今が輪になって繋がり海馬に残る思い出となりました。カミナリ雲は春野町の果てまで吹き飛ばされて、こちらを睨むように消えてしまいました。空はさっぱりと晴れ渡り、一番星が輝きました。
風は切り倒された大杉の跡地に建ったスナックに、勢いよく吹き込んで暴れまわった様子なのです。



南アルプスが病院の窓枠いっぱいに連なっていました。手術室入り口のペダルを、看護士が踏むとステンレスの観音扉が、パカンと開きました。舌癌手術の患者が運び込まれました。手術用のシェルターで、麻酔薬が打たれ、秒読みが始まりました。キョロキョロ覗いて居るのは、手品で客席から呼び出されたような、役割も分からぬ患者でした。それも、麻酔が効いて来るまでの十秒間足らずのことで、後の事は闇の中。
脳波が蛍の群れにように輝きました。それは世界同時多発クリスマス・ツリーのように暴れまわった様子です。そばでは
「蜘蛛の巣をとったら蜘蛛を殺して置かなくっちゃ」 こんな声が響いていました。舌癌の腫瘍の切除と、転移の予防について、医者の独特の符牒だったかも知れません。黄色いシーツの真ん中から首をだしている患者には何も聞こえません。
「あの時、あんなことをしていなければ。もっとはやく気が付いていれば」 と嘆き。不治の病と死を受け入れ再出発する二度とない瞬間でした。腰のあたりの要所だけが、くたびれたファスナーでつながって、もうそこから先は覗けません。言葉の無い場所なのでした。他人の感じている傷の事が我がことのように分かってしまう。記憶には残らないが行き成り忘れられない感情になってしまうのでした。どの手術室の蛍光灯も涼しげで、過ぎた季節のアジサイのように、また色を変えようとして輝くのでした。そこは薬品に連れてこられた、一人孤独な臨床でした。まわりの助手たちは霊安室と病室を同時に整えようと、患者の開かれた患部のそばを走り回りました。麻酔の効いた脳から搾り出された風は院外にも飛び出しました。そして、うろこ雲に乗って、やがて浜名湖の湖面に、投網でも打ったようにずっしり沈んで行きました。鉄橋の新幹線は11両編成で、後ろが前にもなっていました。激しく吹き荒れていると天と地が逆さに見えて消えました。
患者から体外離脱した風は、寿荘にたどり着くと、ブレーカーが落ちてガスも止まり、主が入院していることを知りました。誰もいなくなった寿荘の個室は人を飲み込んだ底なし沼のように知らん顔をしていました。



鎮守の森では三人の腕白小僧が熱いセミのおしっこを頭から浴びたところでした。セミはおしっこを空からばらまきながら飛び去りました。セミはめまぐるしく飛び交うので、最初の一匹が分身するのだと錯覚していました。でも、その日のセミは、うす暗い鎮守の森をなんと低く、横切ったことでしょう。セミの体にけいれんが走り、三人の足元に仰向けに滑り込んで来ました。散々三人に向けて、水を捨て身軽になっていたはずなのに飛べませんでした。年長者のわたしがすき透ったまま重くなる飛行物体を、空高く放りあげました。そしてほっと仲間を、振り返りました。電線で狙っていたカラスが素早くそれを拾って食べました。
風は驚きのあまり、大楠の洞穴に逃げ込んでしまいました。風は澄んだ眼差しをするだけが精一杯で、セミにも三人にも何の役にも立てずに消えたのでした。
雲立ちの大楠は樹齢2500年を過ぎていました。梢から雲が立って家康を救ったのを風は昨日のことのように覚えています。しめ縄を張った大木は疲れたように根っこが地面に盛り上がり、少しずつ腐り始め割れていくのでした。社殿の右側には土俵が雨よけのシートに包まれて、夏のお祭りを待っていました。
春には、白い花が神社を取り巻いて咲きました。お昼時のせいか、人っ子一人居ませんでした。
「待てば、去年の夏の三人に会えそうだ」 と思っていると、蝶を追って駆け出して来る、風がありました。
今度は春一番つぃて、荒々しく吹付けるのです。それが大真面目で、蝶を追い詰めているように見えるのでした。例えば、探し物を取り返す勢いで、形相までも鬼にして、老木を鞭打ち、無理やり若返らせようとしました。ですから、風は祠を狙って、飛び込んだり、飛び出たりしているように見えました。風は緑の楠の葉と葉裏の帷子を、後ろ前に羽織って、一日中荒れ狂いました。するとどうでしょう。あたり一面、花吹雪ではありませんか。風は屈み込むと、両手で筒を作り、遠眼鏡でも覗くような振りをしました。そしてあの三人の腕白を見つけました。
「あーら、去年のセミの事も何の役にも立てなくて気にとめて今年も覗きに来たこの風の事もやっぱり、何も覚えてないのね」 辺り一面、花びらの白い雲が立ちました。腕白の三人の顔が楠と桜の木を、不思議そうに代わる代わる見上げていましたが緑の風を見つけることは出来ませんでした。



あの時、山から波へと、道を切り替えていなかったら、こんな事故は起こりませんでした。自分の思惑で出来ることはわずかなものです。何もかもが後の祭りになって行く様に、思えてしまうのでした。地震が奈落に海水を飲み込んだとき、白い風はその波頭と一緒に渦巻いていました。やがて津波の背を押して、海岸に思い出を追加し消耗するように次々と押し寄せました。波は信号機のある交差点をアスファルトごとめくり、人も大勢攫っていきました。逃げ惑う人々が流れてゆく家の屋根に追い詰められ、風に手を振るのでした。波を追い越してみると、そこには高波に追われ、子供を抱いて逃げ惑う人々がいました。そのときになって、風は大きな罪を犯したような気持ちになりました。だから今朝は何事も忘れたくて、中田島海岸の波頭とたわむれ、充分反省してから寿荘にゆっくりと近づきました。波は相変わらず、白馬の鬣のように逆巻き暴れました。でも中田島の波は飼いならされたように、防波堤のこちら側で規則正しく引き返してきました。人を家ごと攫って行った恐ろしい津波と、同じ波だとは、とても思えません。それから、道を切り替えて陸に上がって寿壮に向かいました。道すがら、佐鳴湖の片葉の芦から、飛び立つウグイスとテントウムシとカタツムリに会いました。テントウムシは自分の巣が
「火事だ!」 と、子供たちに囃し立てられて、飛び立つところでした。風は自分に向かって言われたように思いました。津波の肩を押して、災難を招いたことが蘇ってしまったのです。でも、テントウムシは子供たちに騙されたのでした。空にむけた人差し指の天辺で、飛び立つほかなす術が無くなったとき、子供たちにタイミングよく囃し立てられたのです。「テントウムシ、お前のうちが火事だ」 テントウムシの背中は太陽を反射して、背中が燃えるように光りました。
「かわいらしい背中の火を使って、テントウムシの狭い茶室で、虫達を呼んで茶会でも開くのだろうか」 強情な嘘をついた子供たちでも飛び立ったテントウムシを惜しむように、そんなことを思っているのでした。片葉の芦でかこまれた茶室のお客さんは、一体誰なのでしょう。白い風の右肩が、にじり口の障子をこすって横切りました。芦の葉を這うカタツムリを、ウグイスやモズが食べているのも見ました。カタツムリの思い出のすべてを、ウグイスやモズが引き継ぐのだ、と思いました。そうでなくては風の罪は消えないと思えたのです。たとえすべてが火山とともに消え去るにしても、すべての思い出が一斉に燃え盛って風になるのです。そう、風にとって、死や別れは生命体だけに起きる類まれな現象に過ぎません。
「カタツムリがウグイスやモズの中で燃料として燃え尽きている」 白い風には、ウグイスやモズはカタツムリの記憶を燃やして飛んでいる。未来の省エネ型円盤のように見えました。白い風はカタツムリが赤ちゃんの頃、芦に歌ってもらっていた
「ゆりかごの歌」 や。
子供を生んだ頃歌っていた
「カタツムリの子守唄」 を思い出して
「びゅうびゅう」 と、ご詠歌に編曲して繰り返して歌いました。
風は寿荘の個室にたどり着きました。
「さあ!」 と、主人に意気込んで話し掛けようとするのですが。電気スタンドの傘の中で、急に勢いをなくして消えていました。



透明のペットボトルで作った風見鶏が寿荘の入り口にありました。それはプロペラつきで、いかにも村の発明家が考え出したような代物で、街中のいたるところでカラカラと回っていました。
寿荘の西南の方角では、結婚式専用のトリニティー教会が防風シートをすっぽりかむって本体を消して、最後の仕上げに取り掛かっていました。真南にある大学の正門は西向きの大きなガラス壁に囲まれていました。近隣のコンビニ入り口から漏れる光を、ラメ色に照り返していました。蛾の群れがガラス壁を襲っても、それは本物の光ではありません。蛾の大半は、大ガラスに映った光にぶつかって落ちてしまう運命なのです。電信柱の変電気は風見鶏がつくった透明の夜風にあわせて、低音のビブラートで蛾の運命を嘆くのでした。
「あんた達、カワセミをちょっとでも見習ったらどうなの。カワセミが水面と鏡をどうやって見分けるのか」 そうです。カワセミは、水面を鏡と間違えず、思い切り飛び込んで餌を加えて戻ってくるのです。そのカワセミの用心深さを忘れてしまったために、蛾の死骸の山が出来ているのでした。風は映画の透明人間のようにガラス壁を、すり抜けられると思い込んでいました。しかしそのガラス壁という奴は、一筋縄では行かない鏡に姿を変えるのです。そして飛び込んできた透明の滴を、わたしに送り返してきたのです。
この見えないはずの透明な風に、向けてーほっといてくれれば、そのまま校舎を通過できたかもしれないのに。強情にも程があるじゃないですか― 透明の風は水銀のように丸く固まりました。鏡におちた一滴はポロポロと分裂して目に見えないほど、小さくなっていきました。やがてクオークになって、時と空間に吸い取られるように消えてしまいました。風見鶏から、次に生まれた風は蜘蛛の巣が物干し台からザクロの木にしがみつくのを揺さぶりに行きました。ザクロの爆ぜた実や、風見鶏の周りで軽く渦巻いていると元気が湧いて、寿荘の君の部屋を覗いて見ることにしました。君はもう出かけて留守でした。西側の窓が開けっ放しでした。プリンターから、紙が50枚も舞い上がり窓の外へ飛び散りました。画面はこちらを恨めしそうに見て、がたがた揺れましたが、しばらくすると節電モードに切り替わって消えました。風は
「これ位が、ちょうど良い」 という事が分かりません。なに事もやり過ぎてしまうのです。ある時などはちょっと力の入れすぎで、山頂からザイルでつながれた登山者達の背後から襲って、バラバラに吹き飛ばしたこともありました。サーファーやヘリコプターや熱気球や縄跳びを絡め取って、人の遊び心を、冷やしてしまった事もよく在りました。この部屋にきてから飛ばした大物は、消し忘れた電気ストーブでした。倒れると消えましたが火事になるか、と思いました。そんな留守番をしていると台所で
「プシュ」 と、音がしました。洗濯機へ給水を終わったホースが弾みではずれました。水が勢い良く飛び散り、流し台から溢れ出しているではありませんか。風は慌てて、蛇口に飛び乗りましたが、どうすることも出来ません。水に驚いたねずみが台所から飛び出して部屋を駆け巡りました。
ゴミ箱へ飛び込んだと思ったら行き止まり。柱を駆け上ったが、天井への抜け穴がありません。それでまっ逆さまに駆け下りました。物干し竿のシーツのほうへ帰りかけた風はもう一度窓から戻って、ねずみとの鬼ごっこになっていました。でもねずみは風などちっとも恐れず、ばかにして、すばしっこく追いかけてきます。
それで、ねずみの顔のそばでアルミホイールを思い切り揺すってやりました。ねずみは散々暴れまわって、ひみつの脱走口から部屋の外へ逃げ出したようでした。隣の猫が居る物干し台の方へ。その間も、水は壁を伝って下へ下へと流れ出していました。一階から女性の悲鳴が聞こえてきました。すぐに階段を上る音がして、玄関のドアをドカドカ叩きました。しばらくすると、白髪の大家さんが入ってきました。水道の頭をちょこんとひねりストーブの電源を抜き、西側の窓を閉め、やっと一階の女性を黙らせました。風は何事も無かったように、部屋の外にでることが出来ました。カラスの集団が電線から物干し竿に降りてきて、猫が加えたねずみを横取りしてしまいました。こんなときカラスは鳴きませんね。



二百十日の今日、鎮守の森で獅子舞を見てきました。獅子舞というのは老いさらばえた強情なライオンの事を踊っているのですね。その吹流しの静けさはガラスの鏡や電気スタンドの傘で消えた時とは違いました。聞き耳を立てていると、ガラスの鏡のような水面を抱きかかえ、撫でている水澄ましのような穏やかな気持になるのです。サバンナのライオンの最後の熱い息が黄色い風に乗り移って消えていった瞬間でした。たてがみが枯れて体の肉はたるみ、顔は毛が抜け落ち塗り残しのある自画像のようで。老いたライオンは立ち上がって縄張りと家族を振り向くと、踊るように茂みに消えました。風はライオンの
「ヒュー」 という喉鳴りにあわせて同じ波長の口笛を送ったのを思い出しました。風は怯まずあのライオンと同じように最後の一歩を出してみました。スフィンクスからの質問に答えるように緊張していました。
答えを間違えて風は翼をもぎ取られてしまうことも覚悟しました。そのうちライオンの最の喉鳴りが切ないほど羨ましくなりました。風はひと呼吸すると経帷子である獅子舞の衣を引き裂き、衣もろとも昇天し、終わりの無い憤怒の竜巻となって暴れ狂っているのでした。            

(2009・9・31)

2010年4月6日火曜日

服喪のスートラ8 シェットランド犬シェーンが唸った



浜松東京間の車酔いだけでなく積年の疲れが「ウー」と出て気がつくと入院
「シェーン」と呼んでくれる主人とも別れ 知らぬ影に囲まれ点滴などという拷問
役立たずの足などおいらの一部でもなんでもない もう全身が邪魔だ
かつては 今いるところと 向かっていくところが すでに走っていて遠吠えし
動植物 火 水 土 メス犬や餌の臭いが ワンワンしていた
それが今病院の中でテンになってしまった

テンから痛みが発しているが 体の何処と特定するのも億劫だ
体内宇宙を血液列車に乗って心臓にたどり着いたと思ったら入院
心臓が呼気と吸気を連動させて勝手に生きて居やがる ワンワン
音源を求めるが おいらは目も開けられない 頭上の電灯さえ拷問してくる
「ウオ―ン ウオーン」寝言の遠吠え
血の糸を伝わり来る鼓動 糸電話の呼び出し音が邪魔だ

おいらの自由の身には首輪は邪魔だ
自立したと思ったら病院の天井の監視カメラのテンになっちまって漂っていた
ドッグフーズの缶詰やとんかつフライドチキンのオーラから遠く離れて おいらは気持ちだけの遠吠えをした
主人が見えないのは そこに居ないからでは無い おいらが入院を認めないからだ
おいらだけが仰向きにベッド括られ拷問されてるからだ
でも痛くもなんとも無い 気持ち良いぐらいだ ワンワン

おいらは都会というサバンナを億の人類の全裸体と一緒に エメラルドのそよ吹く風となって走っていると主人に報告してやろう ワンワン
空腹とか愛着とか取るとか預けたり借りたりの金利が邪魔となり
曼荼羅模様の鳥達から鳴き付かれるような 地を這うおいらへの拷問
鳥達は火山の噴火にあっても隊列を崩さず落ちてくるテン テン テン テンと
入院以来 懸命にうごめく生物が 空を埋めて色盲のハイビジョンに映りっぱなしだ 
「シェーン」主人の遠吠えもしている

バリカンでおいらは丸刈りにされた 頭は難しくて残された ライオンに近くなったあの夏 主人のほうが「うーん」と遠吠えしてた
ペニスの周りは敬遠されて手づかず ススキ色の白い毛に包まれた亀頭が ピンク色に幼稚っぽく覗いて ライオンに成り切らないのだ ワンワン
付き合いで主人と朝からビールも飲んださ それであっという間においらは入院さ
酔っ払ったおいらが運動不足にならぬよう皇居一周に連れて行ってくれた奥さん あれは はっきり言って肝臓に邪魔だった
おいらが女を知っているとか知らないとか 話題にされてた日常の広がりが急に病院でテンになってしまった
主人と奥さんの別居が おいらにとっては拷問だった

「個人の自由を求めての発展的夫婦解散」は 娘さんにも拷問だった
別居してからも顔を合わせないように 頬かむりして餌を持って主人の横にそっと座った奥さんに おいらは切な過ぎて遠吠えした
延命治療はやめてください 手のかからないテンになって消えるつもりです
皇居一周の際にでも タンポポの種に混ぜて お堀にでも放り投げて下さい ワンワン
あの夏 主人と外に出たとき、すぐ女学生が反応して「あっれー やだ やだ やだ」主人は持っていたおいらの綱をポロリと落としたもんだ 急に邪魔者扱いされたっけ
忠告しとくが 主人もこれ以上酒を飲み続けたら 確実においらを追いかけて入院さ

もうすぐテンもさっぱり消えるだろう いまさら励まされると拷問だ
おいらとの繋がりを落した主人は入院だ 誰にも届かぬ 犬笛のような最後の遠吠えさ 
綱を落した罰だ ワンワン 赤い糸が爪からD(ドッグ)・F(フーズ)の缶に繋げてあるのが 邪魔だ   

(2008・05・31)

服喪のスートラ7 プルトニュウ夢



暗い右扉から沸いたように二人の男が進み出てミイラを箱に入れている
左の箱の中は分からない 目の前のは胎児だ 男供はそれを斧でズバッと割った 
どんな局面にも「逃げないぞ」そう覚悟を決めてしまえば夢は怖くない
すると映像を伴って大気圏外に飛び出すものが在る
金剛界曼荼羅が宇宙軍団となって迫ってきたが 太陽風に失速して路地裏ドラえもん竹コプターやブリジッド・バルドー ブラジャーのワイヤーに引掛かって落ちた
それからは飛べなくなったが電柱の下からも粗筋だけはどんどん続いている

花川戸から霞ヶ関で降りたつもりが飯田橋だった 桃の花が満開で教授たちは二日酔いの影を引きずっておつな登校風景がしばらく続いた
鉄パイプの策がぐらぐらゆれているのを飛び越えキャンパスに入ると
「本学学生は学校側と団交中 入学希望者は遅刻で共闘して欲しい」とヘルメットが神楽坂のほうに目線を上げた
ここで共闘すると面接に遅れてしまう 共闘は面接の隠し味かもしれないがまだ入学していないのでそこのところは分からない 立て看板が校舎と講堂を割っていた
交互に舌を出しながら二人連れの女が追い越していった ブレイクの「最後の審判へ向かう告発者 裁判官 死刑執行人の三位一体」という水彩ペン画があったっけ
ヘルメット連が窓ガラスを一枚残らず熱心に割って入学祝いしてくれた

上映とオープニングが終わって暗幕を引き寄せようとしたとき
稲妻が二本走り 神楽坂の丘陵から電子レンジ ガス台 茶碗 火炎瓶などガラクタが風に乗った羽毛のようにあふれ続けた
「校舎は高台にあるので入学に支障は無い」とマイクは叫ぶのだが針の無い時計台と机の下に隠れた生徒を何から守ろうとするのだ 一体どこの墓穴が吹き出したのだ 何時の誰の漂流記なのだ ここにあるのは
「電源は切ったほうが良いのでしょうか」
神楽坂を転がり落ちる燃えない金のゴミに 燃えるごみ 犬猫人体から すずめ ゴキブリ
薪能仕立ての講堂ではイントロとして花川戸木遣り団が櫓を一本づつ鯔背に担いでいたが 閃光におどろいて全員が肩から落とした

演壇からヘルメットが顔を出すと新入生の涙が一斉に机にぽろぽろこぼれ落ちた
学食ではさきほどの二人連の話
「君たちとは一度どこか出会っているよね」思い切って話に分け入ると
「この人 子供まで作っておいて 忘れてるわ」顔を見合わせ百円寿司を食べ続けた
「さっき変な夢見てたんだ 神楽坂方面に 二本の火柱が立って」
「議事堂は狙われるようなことをして居たんでしょうか」

結局庶民は 議事堂に一センチ四方の穴を一発も開けられずに黙って居たんでしょうか
年端も行かない電気少年が コンピューターで 電気釜やチンのなかにプルトニウ夢を落したんじゃないでしょうね
キャンパス発の逃走用バスは 今燃え上がった神田川聖橋に入った
中野で百円寿司屋を覗くと例の二人が食べている
「さあ戸を開けて早く外の状況を見なさい」二人は黙々と食べ続けた
中野から荻窪への区間中 焼け焦げた生物がいくつも転がっていた

半透明のきのこ雲が広がり担ぎ切れない柱が割れ
「えー うっそ」という金切り声があった
荻窪行きのバスの固い座席で フォアグラをぬかれた鵞鳥のように揺れ
手の甲はブリキ栓を握り潰し 顔頭は落ち
電池はあるのにニュースはない
バスはビルが無いのにビル風が吹く 火焔地帯に入った

六弁のスピーカーが韻も踏まず がなり続けた  
ブリキの栓は食い込んで体内に入った 火と風がプルトニウ夢の雨に木霊し
ザーザー鳴る 肌身離さず愛用の携帯ラジオ「怖ちゃん」も落としていた

(2008・05・31)

2010年4月5日月曜日

服喪のスートラ6 トマトの踊り



二つの安楽椅子衰弱体と老体 互いの顔についた飯粒を取り合って食らう性愛
睾丸をブラーッと遠心分離させて ボウルを投げ込むと「カッチーン」と鳴った 恩寵
1234,2234,3234,4234,5234,,,8234の肉体脱落指南
新聞紙張り重ね 分厚い書割でうごめく畦道歩行図譜
真っ赤な処女肛門 生で最もおいしい料理 甘いトマト
「にしわき さーん」客席を見返して死児たちが瞼で踊り

蚊人間の吸い口を客席に突き込んで
大野一雄のバックから 半陰半陽持ちつ 持たれつ
レコードのリフレーンに 転がった終りの無いトマト
白塗りの立ったままの死体が 無い綾取り紐を綾取って臨終に近寄ってゆく
書割「アダムの創造」が怒りに触れ 残ったET状態の指まで切断された
人影は無く マルドロールの棒切れがある

老年女形の色気について土方巽は 大股開き指南
上手非常口から登場の人物に照明係は嫉妬し 音響も同調して盲目踊りがすっ飛んだ
盲目は劇場からサーと引き上げると自宅アパートの窓に嵌まって半日の擬態窓枠体
擬態は噛みしめていた 犬の腹への嫉妬
その足跡をたどっていけばガムランからの恩寵
ジュースになって戸外に飛び散るトマト

1968年紀伊国屋ホール 二日目はうまくいった トマト
かすれるような音量「こんな別嬪見たこと無い」 川辺の隠れアベック
お互いの顔から奪う飯粒
空手振りの機械時計仕掛け
冷やし中華の肉体が マカロニ管へ 挿入される
アスベスト館に転がっていた雑誌付録赤いソノシート 

夜ゼミが風倉を鳴き満たし 照明が天井を駆け巡り テープを巻き戻すピンク・ノイズ
HOW TO  DRESSING UP THE VIRGIN  TOMATO 
音響室助手とチーフ 舞台監督 照明から遠く離れ 晒されたホワイトノイズの
筋子の腸  キリストは 死の直前に エリ・エリ・ランマで
「セーノ」と起こされて臨終する
不在が回収していった風倉 尽きない数々の見落とし 小杉 川仁

猫を袂に入れてボーダーライン 横切り
消された図譜「アダムの創造」 指はリヴォルバーに伸び
もんじゃ焼きのコテを 前髪飾りとして頬肉をこそぎ
蕩けたハンダ鏝の吃音が飛び交い舞台監督は「セミ セミ」と音響室に罵声投げつける
頼まないのに来た音響助手に感謝 ミュージック・コンクレート
現実のスタッフ達は 機材の影で立ったまま死んでいた インドネシア経由の性愛

死体の踊り 渋澤龍彦 吉岡実 琺瑯深皿大盛り 中華風肉団子
髭女と鬼籍老女の両性具有 消えない白い刺青
「下田夜曲はやめてくれ バッハ バッハ」 聖ボッカチオ風家庭料理の方へ叫んだ


(2008・05・31)

服喪のスートラ5  不機嫌そうなデスマスク



風倉 匠 を偲んで

薄く平面化して行く苔むした荒屋敷 
踝の立ち位置である煉瓦 
始原の点に成ろうとする粉末 
霧となって溶ける柱 
方法はすぐさまバルーンとなり 
水に浮かべると墨流しの倉が現れる

脚立から光を追って空中にロケット風船で飛び立つ倉 
新聞紙に梱包された木馬亭銀幕 
咳き込みの諏訪湖の黒いバルーン 
中で弾け飛んでいる 
奉納としての肉体 
メリケン粉の足跡に毛を生やし

都美術館中央に限界重力で釣り下がり  
永久運動の振り子は宇宙音を拾いながら 
秋田弁を獲得した肉体
VANの扉を引きちぎり 
時限爆弾さえ抱き込んで
振り子のように振動するバルーン

ずるずるとキリストの筋子を引きずっているバルーン 
風を食らって電話線も消えた 
そのとき天井を支えていた煉瓦 
アダムが指差している倉 
天地創造を含む荒屋敷 
天井となって天地を貫くセスティーナの柱

時を越え 天井を失ったパルテノン エジプトアメン 
痰で裏返され 吐き出される肉体 
脳を少し抉り アルミホイールの空洞で残った
文字に書かれると目的を失った メディア
無い右手が宇宙音を拾い受発信する

轆轤から何度も振り落とされる 
軋む音の重みを支える 
火かき棒が知っている 
葉蘭にモカ・コーヒーを飲ませていた 
生贄とともに吹き飛んだ 
出番の回数だけ脳陥没が見える

夜明け前 痙攣する倉の窓 錆びた五寸釘 海岸を漂う煉瓦
薄明に包まれる荻窪荒屋敷 誰もいないアスベスト舘 踊り狂う四本柱 
湯布院の独楽 「時間の矢」に逆らって渦巻け 白い粉末

(2008・7・31)

服喪のスートラ4 ママ ぼく でかける



語り手は「ゆけ ゆけ 二度目の処女」(1969年若松孝二監督映画)を新宿蠍座で観た男
「往生要集」恵心僧都はこの映像の切れ端を自殺を扇動したとして地獄へ落とすだろう 映画で地獄を示すために 
男は再び掘り起こす事になるのかな 二人の死体を 
舞台は原宿セントラル・アパート屋上 ポッポと月男は若松組お抱え吟遊詩人 
二人は屋上に落ちていたコーラの菊の紋章ブリキ栓をあどけなく握り締めた 
それが、手のひらに王冠型に突き刺さって痣となり血が噴出するも知らず



柿の木坂などをさ迷う臨死体験者 見えない肉体を纏った裸
隅田川を起点として東武線に寄り添って立ち並ぶ避雷針
夜は閉じた朝顔 昼顔 鎖陰である屋上
米のとぎ汁または小便が 舞台に流れ出て客席に瀑布の飛沫
ポッポと月男は迷わずビルからビルへとかけ渡された綱渡りを 
冥土 涅槃 餓鬼 畜生 修羅 親鸞 闇を開く



宇宙と血と泡箱と額紫陽花が開く
かび臭い地下室ベッドの裸
「行きつつある者は、行かない」は ゆけ
雷の巣から雨が迸り 二人がしがみついた避雷針
逆光で膨らんだ飛沫 ポッポを包む水
真夏の腐臭 浄化装置である屋上



夕立が光の在処を探し出し モノクロのフィルムに掠め取った
ハイビスカスの隣にひし形のドリアンが開く
人が流す赤い血 剣のさび 竜眼
地下室でホースだった桂冠詩人 月男のなめくじ裸
「心中しそこなったみたいで いやよ」雷雨にゆがむ避雷針下 ポッポは云った 
ホームレスになって子供が親を産むを確かめよ



幽閉者よ 葡萄前進して自動小銃を構え 
ラッキイ・セブンの瘋癲を殺害した屋上
雷はいま落ちるだろう 避雷針に
名前は消え 言語ゲームが始まりサヴァン症候群 脳を開く時
コンクリートにころがって漫画を読みたい 死ぬ前 二つの裸
「人間て 此処っから生まれてるの」 水から



記憶に打ち寄せる犯された海水
股間にまとわりつく砂粒を ポッポは陰部で食いながら溶かし
皮膚 肌を脱げ 骨肉 内臓を 太陽神経蒙を脱げ 
空に面した蜜室であり、空と鳥にも施錠した屋上
早回しされたぼくは 君の中のぼくを 君はぼくの中の君を切開する
ぼくたちは 衛星みたいに回りあっていた 太陽であった避雷針



吹き出す前の言語 そこに立っていた避雷針
宇宙は見えすぎだ 呼吸がすべてを姦通している
地上も宇宙も錆びたスペース・キイで開く
大ロング 鳥瞰の路面
朝霧が逡巡する屋上
カメラは 見下ろすばかり 血も出ない二つの裸



八月八日枕元にあった水 気が付けば原宿トリニティー教会を見下ろしている


(2009・5・21)

服喪のスートラ3 此の岸で鹿毛は留まる



苦も取り除かず もらい泣きしている悲などない
行くものは行かず 中観の果て 慈悲心鳥
宝蔵も曇鸞も道綽も善導も法然も親鸞もバクテリアとして嬰児級だ 
有機体を横目で睨んで飛び去ってゆく通過点である駅
いじめに気付いた時 炙り出されるマゾッホであった自己
微笑は2009年 台風となって阿闍世王を救い地球を揺する

天体望遠鏡の拡大された画像に宇宙風 揺らぎ
回転し捻じ切れる白夜の日まわり
北京の蝶が台風を発生させる 超因果風船現象 他者の影
灯明に集まって絶滅する虫は 人間に天誅を与える
降りる乗る乗り換えるすれ違う 何処にもある誰とも会わない駅
無いことにはじめて気づいた闇の灯明であり 始まり A地点

ぼくの人差し指とジイジの人差し指がÅ 波長で繋がった
懐中電灯を蛍光灯の星型の目印に当てると 小さな星はゆらゆら揺れた
「ジイジ去年と声がちがう!」「差し歯にしたからね!」
壁の色もピンクから空色に塗り替えた 短い夏の日
懐中電灯が立ち上げたUFOのある四畳半宇宙だ
もう一つの星が向こう側 空色の地平線に沈んだ 影となって

皇居前広場あたりに限りなくループを巻いて折り畳んだ影を置く
東京駅辺りに角膜があり 二重橋付近の信号機からはシグナルが映え
自動車は西側の一角で造られている 街中で自分の道を見付けることが出来る 
自動車は衛星によって首都高速に誘導され 定められた地区に到着するが激しく揺れる
その後は大型タンカーに詰め込まれ 新しい目的地へと旅立つ
長い航路でバラバラに解体され 部品から新しい車を組み立てる

歩行者を震え上がらせる 東京など都市 駅付近
瓦礫を横切って 犀の角 糞掃衣が行く
海に砕け散る流れに攫われながら 
呼び寄せられ 凭れかかった柳がゴッホの糸杉より
セクシーに揺れた
一瞬にして月を飲み込む宇宙

「大馬鹿者!」関係を保とうとする兄貴分の声がいつも注意する
ステーション新宿駅ステーション新宿駅
あきれた アジテーターの手が「こちら側へ来い!」とスクリーンから首を絞めに来て揺れる
夜明け夕闇の底抜けの空 五右衛門風呂の踏み板が沈む 
路地裏から見た風景 垣根越しに植木鉢軍団を舐めて空に駆け上るカメラアイ
「ポリスに抱かれて死んでった!」’60年代のアイツとの日々

流れは割れて閉じ揺れる 釣り人は一瞬宙にバタ足で浮き
川面に強烈な夕日 ここは魚座が支配している水駅
定時の停車 此の岸で鹿毛は留まる さっと消える魚影


(2009・5・14)

2010年4月4日日曜日

エピローグ 服喪のスートラ



石蹴りの翳のない円陣では
長い手足
キリギリスの少女が
横糸である花のスカートに風をはらませて
鈎状の指先を筬にして
木漏れ日の縦糸に織り込んでいく
その姦しい静けさの忌中から
ただ一人 われを忘れた老人が立ち上がって
真鍮のハッシャーバイ式圧縮ポンプ擦り
砕ける夕日に向かって熔け

(2010・4・4)