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2013年3月19日火曜日

服喪のスートラ9 パノプティコンからの脱出



白いレースのカーテンが、部屋の入り口をふさいでいた。見方を変えれば、蜘蛛の巣状の網戸が出口をふさぎ部屋に閉じ込められた。枕もとの南側路地から「おい、おい」と顔見知りの死者達が呼んでいる。弟や友人や葬式で送った人ばかりだ。起き上がり窓にかけよった。人影は路地を音もなく移動しながら「今そのベッドまで行くからな」と西の入り口に回り込んでいるのか姿が見えない。あいつが侵入してくると厄介なことが起きる。現実のほうから、ずんと判決が下った。嘘嘘しい生暖かい夢の画面に粉雪を吹きかけられ剝き出しの右肩が冷え切って目が覚めた。汲み取り式の厠がにおい、出口のくもの巣はレースのカーテンになっていた。

散歩から帰ってみると西側の物置が吹き飛んでいた。骨組みだけ残して、壁のあったところは曇り空が覗いている。母屋に入る引き戸が、外れていた。その半開きの隙間に、にじり寄って中に入った。十人ほどの乙女がインドの絣を着て正座していた。中でも目立ったのは、お雛様のような「顔が命」の童女だった。一礼して全裸で童女に襲い掛かった。服をはいだ。童女の口紅がはげ、のっぺら坊の勾玉の陰陽模様、あるいは水銀の玉かルドンの目玉のようになった。ペニスはその円陣の中にナイフとなって突っ込んで行った。童女のその光る眼球へ射精した。時が一瞬メビウスの輪やクラインの壺のラビリンスを抜け、糞のように出てきた。陽と陰が、水母の体中でおたがい反転しながら包みあって揺れていた。春が近いのだろう。

ポッポは母のベッドの下に住んでいた。ベッドの下には昆虫やゴキブリがうごめき、耳には触覚の生えた昆虫が侵入して、バリバリ家ごと食い尽くすような騒音がした。母と義父の重みでベッドがギシギシきしんだ。義父はポッポにしたことを母にもしているのだ。いや逆だった。母にしたことをポッポにもしたのだ。60年代ポッポは母のベッドの下にバリケードを築いた。それは義父へのバリケードでもあったのだ。母が目をむいてポッポをにらみつけた。母のベッドの下、ここには逃げ込みたくなかった。だがそこしか居場所が無い。義父は母が銭湯に出かけるたびにポッポを犯した。部屋の隅で猫がじっと見ていた。でも生まれたという悲しさは消えなかった。母が銭湯から上がってくると、ポッポはギシギシなるベッドの下に戻った。

ベッドの下で、生ぬるい体液をかぎながらいつまでも眠った。母が花魁の髪結いをしているころだった。花魁たちにはよくポッポにヒロポンを買いに行かせ。娼館でかくれんぼをしていて、帰りそびれた客と居残りの花魁が布団の中でもつれている部屋にも飛び込んだ。母は、やり手婆アとも呼ばれ羽振りは良かった。しかし斜頸のため結婚はあきらめていた。闇で客を取って小遣いかせぎぐらいしたっておかしくない。それで、今のポッポがあるということだ。「なんて自然な成り行きだろう」ポッポは思う。母が義父の二号になったのはポッポ10才のころだった。本妻と同じ浅草の住所に美容院を出させた。母とロリータ役のポッポを住まわせた。義父の経営する会計事務所の職員だって何もかも知っていて、いつもポッポを見ては薄ら笑いを浮かべていた。美容院の親しい客が母に忠告したそうだ。義父が酔っ払って大声でポッポを自宅の空き部屋に呼び込んでいた」と・・。母が閉経し、セックスをこばみはじめた。義父は鞍替えして、また若い女を作り隅田川で入水心中して太宰みたいに土左衛門となって本妻の元に戻ってきた。本妻がポッポと母の美容院に怒鳴り込んで、慰謝料を請求した。借地権をめぐって本妻との間で裁判が起きた。その和解が決まりポッポの生活の見通しが立った次の日家へ帰るとは母は一人首をつって死んでいた。母をもてあそんだポッポの父と、義父とその本妻とポッポにまで腹を立てていた。あのときの母は朝起きて寝るまで顔を向ける場所が無かったんだと。「だから、わたしは自殺するのだけはいやなの」ポッポは月男に訴えた。

駆け落ち心中など、粋な話はひとつも無くトルコ風呂化への道をひた走り、人買いの怖いおじさんもネクタイを閉めて裏道をこっそり歩いていた。テレビの「おしん」に引き換えて吉原の昼間は華やかで明るすぎた。ただただヒロポンで日を送る花魁たちは、客の取り合いで激しく罵り合って殴り合っていた。心中こそ例外なのだ。遊女だって顧客第一主義で競争してセールするのだ。土方巽が舞台を陽炎のように犯しながら通過していた頃だ。

ポッポは「強姦されても私の生きている悲しみは消えなかった」訴えて月男に自分を殺してくれるように頼む。そして次の日二人の旅はビルの地下室から5階の殺害現場へ、さらに屋上へと続く。5階で変態グループが四人殺害されている。それを見せられた後でもポッポの死にたい気持ちは変わらない。「こいつら豚だ、おれに変なことしやがって、殺してやった」月男はポッポにナイフを握らせ死体を力任せに刺させる。でも、もともと突き刺したところに生命は無かった。「私を殺して」時代はシャロンテート事件の後、オウムの大量虐殺、連合赤軍の総括のまえであった。フリーセックスやフラワーチルドレンが表れたとたんに見えてきたのがカルトや、ポアや総括という仲間殺しであった。月男は、性的虐待をした変態グループの男女四人を包丁で殺害する。そして屋上を乱交パーティーの場として使っているヒッピーたちを「ただ嫌いなだけなんだ」と皆殺ししながら歌う。

「これあんたの歌」「そう俺の歌。でも、もう歌うの、よしたよ。あんたに聴かれちゃったからなー。もういいんだ」「ほんとに死にたいわけを言えよ」「わたしは人を殺したいから死にたいの」そしてしばらく絡み合う二人。「こんなの俺苦手なんだ」「漫画の本読みたいな」「わたしも。は、は、は、」ポッポは手すりに手をかけ振り返り「愛してた!」 といって飛び降りた。月男は屋上からポッポのあとを追って身を投げてしまう。若松孝二監督のそれには浄土はない。ただ二人の死後に私立大学の掲示板に張られた「親と子の話し合いのある暮らし」「シンナーをすうのはきけんです シンナーをもてあそぶことはやめましょう」という防犯ポスターの薄っぺらい軽さだけだ。観客は劇場空間に宙吊りにされる。その瞬間。この映画の起動装置が爆発する。その爆風で青春を終える観客も多いだろう。「君の青春は最悪で底抜けの『これだ』」と告げているのだ。釈迦はあるとき弟子達に性欲をおさえる修行をさせるために、バグムダ―河畔の墓地で、死体が時間とともに朽ち果てていくのを定点観察させた。骨の隙間から内臓が覗き見え、それに蛆虫がたかり、野犬に食いちらされ、白骨化してゆく。修行者の中には、この墓場の女体をみて夢精しながら覚醒したという、正覚者ラージャダッタ長老もいた。かれはすぐさまその場を去り寺に戻り禅定に入ったというが、それは例外であった。そこに留まる実習中の比丘の中には、沙彌とよばれ年端も行かぬ見習いも多かったのである。肉体の汚れそのものを厭い、生きることへの疑問、生きて今あることへの不信を訴えて集団的うつ状態になり。次第に僧同士の会話がなくなり、意思疎通が困難になり、一人ひとりが孤立し疑心暗鬼に陥りはじめこの世の地獄を見る。「仲間が自分の命を狙っているのではないか、自分も今観察している死体のようになる。それも将来でなく今すぐそうなってもおかしくない」その不安や不信から自分を守る最後の手立てとして、人を殺さないために自殺者も出た。やられぬうちにやるしかないと追い詰められた僧もいた。自らは戒律により殺生できないので外道の行者に頼んで、仲間や自分自身を殺させた。衣や鉢を報酬として行者に与えてしまう思考停止状態の比丘も現れた。

そのうち外道の中には「自分は悪魔にそそのかされてはいるが、良いことをしている」と思いこみ「修行者の修行を完成させるため」と自分を納得させて、バグムダー河畔で殺人を請け負う者が現れ。さらに犠牲者がでた。ここまではチャールズ・マンソンファミリーの殺害や連合赤軍の総括、オウム事件になんとよく似た出来事だろう。釈迦も慌てた。修行の内容を死体定点観察から呼吸法である数息観に変え、殺人をしたり自殺を勧めたりした場合、出家者としての身分を離れなくてはいけない極刑、破門を定めた。この戒を犯したものには、その殺意の有無によってその罪を厳密に判断するようになった。そしてよく話題になる死後の世界に対しては、頑として口をつぐんだ。如是我聞にも「無記」として死を賞賛したり、勧めたりすることも罪と取り決めたのだ。考えることと行うことは同じことだとした。チャールズ・ホイットマンと、マンソン・ファミリーが、スーパーマーケットのゴミ捨て場からあすの食べ物を、調達して眠りに付いた瞬間。オウムが立候補した瞬間、連赤の共有財産であるはずの赤ちゃんが警察に保護された瞬間、月が太陽の中に溶けてしまった、死が欠け。自由という牢獄。ドラッグという虚無。死が欠けたままの、集団的うつ病。

「ポッポや月男のように、本当に屋上から自分が飛び降りなくては、何も始まらない」葛藤はいずれ、鎮火させなくてはならない。可能性とは、欲望を外に向かわせない状態のことであり。あるものがあるべきところに収まるには、放火や親殺し子殺しもあるだろう。それを認めた上で、長い道程が必要なのだ。それはドラッグの旅にも似てるだろう。臨死体験にも似てるだろう。人は死ぬとき観念する瞬間がある。白いレースのカーテンが屋上の空を覆って、屋上の病室は患者を満載して臨床実験をしていた。月男の飼い犬が袋小路にまよいこんで二階のベランダから飛び降りたことがあったが、前進しかできない細い穴に嵌まり込んだその犬が自殺したとはどうしても思え無い。犬も観念したのだ。



欠落、劣等、優越も充実もなく空洞のホースなのだ。生きていることが、遠い星からホースの中を流れ去り、また忍び寄るようだ。月男はどこかの街角で殺される。殺すのはポッポだ。散々うそだらけの身の上話を吠え立てて。男漏取風階段を下りた数奇屋造り、井戸端の暗闇で、お茶碗かいて銜え、これが冥土の免罪符と、寺のかね三つ四つ五つ数え終え。「おいそこの照明さん。死体の落下地点に屋上からスポットを当ててよ」声帯の微動は電信柱の電圧器に確かめられ、未明に溶け込んでスポットライトの光となった。茶碗のかけらは地のはてにまで延びて行き、三千世界の地層となり。火山灰となり唇そのものがペットボトル化し、飲み込み口になって中身の空洞ホースに繋がっている。そこにすっくと立ち上がるのは、大理石の男女の二体、番ったままに転がり、天空を覆い海に波紋を投げかける。

脳の無い樹木宇宙を数えるのだ。少女ポッポが全裸でこちらを振り向いて、月男に「愛していた!」ぎこちなく笑っている。月男は「ママぼくでかける」声に出して特別養護老人ホームのママに向かって呟いた。
ブリキの王冠めがけて殺到し登場人物が揉みあうとき。「やめろよ。人に見つかるじゃんか!」「うるさいよ」「だってお前は二人も殺したし明日の朝まで静かにしてくれよ。人に見つかったら大変だ」「何が大変なんだ」「だって俺達も巻き込まれるジャンか」「巻き込まれる! 静かにしてやるよ。おまえなんか静かにしてやる。眠らせてやる」見ろ。器官の無い体たち。後生大事な主体性を奪いはじめてお互いの自由の檻をナイフで引き裂いた。無常とは胸から吹き上がる血の事。屋上よりの落下でホース内の鬱血が疼いて来る。ホースの中身を空っぽにせよ。1969年の事でない「今ここの事」。

(2012・11・30)

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